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ユリーカタワー Eureka Tower

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2017年8月11日(金)
ユリーカタワー Eureka Tower 293.3m
サウスバンク Southbank
メルボルン Melbourne
この地区の地図Googole Map

ユーレカタワーのデベロッパーは、ユーレカタワー社(Eureka Tower Pty Ltd)とDaniel Grollo (Grocon)、投資家の Tab Fried、建築家 Nonda Katsalidisのジョイントベンチャーであった。当時は世界で最も高い住居タワーであったが、現在は、ドバイのHHHRビルが優っている。2016年時点でクインズランド州のQ1ビルに次いでオーストラリアで2番目に高いビルで、世界では15番目に高い住居ビルである。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF8.0 1/250秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2017年1月21日 板屋雅博 撮影

ユーレカタワーの名前は、ビクトリアン・ボールドラッシュの時代の1854年に起こったユーレカ砦の反乱に由来する。この歴史は、ビルのデザインにも反映されている。建物の金色の冠は、ゴールドラッシュを表しており、赤いストライプは、反乱の時に流された反乱軍の血を表している。青いガラスの被服カバーは、ユーレカ砦旗の背景色を表し、白いラインは、砦旗の十字架を表している。水平の白いラインは縞は、調査官の測量機器の上のマークを表している。タワーの1階部分には女王蜂の芸術品モニュメントがあるが、人工の蜂の巣で、2匹の蜂と女王蜂がいる。金色は、ビル頭頂部の金と呼号している。作品は、Richard StringerとNonda Katsalidisが制作し、1007年12月に設置された。

 ユーレカの反乱は、英国の植民地政府に対して反抗して1854年にバララットの金鉱夫によって起こされた暴動である。反乱の象徴とも云えるユーレカ砦の戦いは、ユーレカ金鉱床に金鉱夫たちが築いた砦で1854年12月3日に衝突が起こった。
衝突が起こった。暴動は27名が亡くなり、大半は反乱側であった。

1851年8月12日にジーロンアドバタイザー紙にトーマス・ヒスコック(Thomas Hiscoc)の金発見のニュースが乗って、ボールドラッシュがスタートした。4日後に植民地政府は、全ての金鉱山に権利を設定し、同年9月1日から月に30シリングの免許税をかけると発表した。バララットの金鉱夫たちは税の撤廃と投票権や土地購入権を要求して抗議の行進を行った。政府は、軍と警察を送って鎮圧を計ったが、反対運動側はバララット改革同盟を結成して強く対抗した。


 鎮圧軍と反乱部隊は、小規模な衝突を繰り返し、鎮圧軍は、厳重な包囲網を敷いた。12月には政府は、金鉱夫免許税を月1ポンドから3ポンドに引き上げると発表した。反対運動は、ビクトリア植民地全体に広がり、武器を持って立ち上がり始めた。特にバララットでは酒税も大幅にアップされて反対運動に火がついた。ベンディゴでは1853年に反免許税同盟を結成し政府を武力衝突が発生した。


12月3日午前2時に政府軍276名の兵士と警官がユーレカ砦を包囲して、戦闘が始まった。武力に勝る政府軍がすぐに反乱軍を圧倒して、午前8時にはほぼ戦闘は終結した。
反乱終結の後で、約120名の金鉱夫が逮捕され、13名が裁判にかけられた。
バララット改革同盟の会長Timothy Hayes、黒人ジャマイカ、ヨーロッパからの移民を代表したイタリア人、アイルランド人でバララットタイムズの記者、ユダヤ系スコットランド人、シドニー生まれの豪州人、ニューヨークから来た黒人米国人、オランダ人、アイルランド人などであった。


 1897年にアメリカ人の作家マーク・トウェインは、ユーレカの反乱は、オーストラリアの歴史に於いて初めての小規模ではあるが自由は自治を求めた政治的革命であり、歴史に残るべき称賛される出来事であると述べている。

ユーレカ砦旗の生地はシルク、生地の色は青、大きなシルバーの十字が書いてあり、5つの星は、南十字星を表している。
2005年12月13日に州首相スティーブブラックスは、メルボルンのスペンサー通り駅(Spencer Street Station)をサザンクロス駅と名前を変えたが、これはユーレカ砦ではためいたユーレカの旗が民主主義と自由を表したが、ビクトリアの人々に思い出すようにと述べている。


  メルボルンでも反乱部隊に対する多くの民衆のサポートが集まった。反対運動の結果、1856年の選挙法の導入につながった。選挙法は、ビクトリア植民地下院議会の選挙において、白人の男性に完全参政権を与えるものであった。オーストラリアに於いて民主主義の2番目の法律と云われている。そのため、ユーレカの反乱は、オーストラリアでの民主主義が生まれた場所とも云われている。


Wikipedia

ユーレカの反乱

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