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シェルハウス Shell House

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2011年4月29日(金)
シェルハウス Shell House
フリンダース通りとスプリング通りの交差点
at the corner of Spring Street and
Flinders Street
この場所の地図 Google Map
航空写真

メルボルン シティの南東の角に立つ高層ビルは、シェルハウスだ。現在、メルボルンの高層建築物の中では、第30位。もはや超高層とは呼べないが、シェルハウスの東側には、フィッツロイガーデンがあり、南側にはシティループの鉄道とメルボルンパークがあるので、この方面からはランドマークの高層ビル。

撮影データ Canon EOS 5D
マニュアル露出 1/125 評価測光 絞りF16.0 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L
2011年1月5日撮影

メルボルンの高層建築物

住所:Spring Street 1
建築年:1988年
高さ:136m
階層:34階
建築家:Harry Seider
建築様式:モダニズム

Walking Melbourne

Harry Seiderは、モダニズム建築に大きな影響を与えたドイツのバウハウス流派の継承者としてオーストラリアの建築に大きな足跡を残した建築家。

バウハウスは、1919年にドイツに作られた美術と建築学校。ナチスによって1933年に閉鎖されたが、近代モダニズム運動に多大な影響を与えた学校。バウハウスは、世界遺産(文化)登録されている。
世界遺産web
バウハウス(wikipedia)
 
フリンダース通りとSW6型925番
1946年12月21日製造、サウスバンクデポ 全経歴

デザイナーのHarry Seiderは、1923年にオーストリアのウィーンの生まれ。ヒットラーのナチスドイツのオーストリアへの進駐により、両親と共にイギリスへ移住。英国でも敵国人として英国政府から迫害を受け、カナダへ移動。マニトバ大学で建築を学ぶ。戦後、両親と共にオーストラリアへ移住。両親の為に1950年に作った家、Rose Seidler Houseは、オーストラリアで初めてのバウハウス流派建築物。
その後、2006年にシドニーで帰らぬ人となるまで、200近い建築物をメルボルン、シドニー、ブリスベン、パースなどに残している。その中には、シェルハウスの様なモダニズムの高層建築を多く残している。

Harry Seidler

 シェルハウスは、当初、石油会社ロイヤル・ダッチ・シェル(本社オランダ・ハーグ通称は、シェル)のオーストラリアの本部として建築された。

オランダとオーストラリア、また日本の関係は歴史的に深い。
1600年代、オランダは、インドネシアのジャカルタ(当時は、バタビア)にオランダ・東インド会社の本拠を置き日本の平戸や、長崎出島、香港、バンコクなどと交易を行っていた。
オランダ東インド会社の船長Willem Janszoonがオーストラリアを発見したのは1606年。豪州の夜明け参照
同じくオランダのアベルタスマン船長がタスマニアを発見したのは1642年のこと。
その後、オランダは、インドネシアを領有して植民地としていった。


 アジア最初の石油は、1880年にインドネシアのスマトラ島の海岸でインドネシア人によって発見された。1884年には、掘削リグが構築され本格的に石油の採掘が始まった。
ロイヤル・ダッチは、1880年にオランダ国王から特許状を得てオランダ領インドネシアにおける石油を開発するためのオランダ王立の国策会社として誕生。
1898年にロイヤルダッチ社によって石油の貯蔵施設や港湾施設が作られた。

シェルは、イギリス人のマーカス・サミュエルによって設立されたイギリスの会社。
シェル社の創業者マーカス・サミュエルは、来日した際に、三浦海岸で拾った貝殻を英国に持ち帰った。ロンドンで骨董商を開業し、日本などから貝殻の輸入を始めた。
その際にの貝殻をモチーフとしたロゴを用いてシェルの名前をつけたと云われている。

シェル社は、商社兼国際海上輸送を行う海運会社であった。シェル社は、ロイヤルダッチ社の石油をヨーロッパへ運ぶ仕事をしながら、独自でも1897年にボルネオ島で石油を発見し、バリクバパンに精油所を作っている。
ロイヤルダッチ社とシェル社は、石油会社としてはライバルであったが、一方でシェル社は、ロイヤルダッチ社の石油を輸送するという補完関係でもあった。
両社は、アメリカのロックフェラー一族の持つ石油会社スタンダードオイルに対抗する為に、1904年に合併してロイヤル・ダッチ・シェルとなった。
インドネシアシェル石油




 現在、ロイヤルダッチシェルは、エクソン・モービルに次ぐ世界第二の石油会社。
3位 BP英国石油、4位シェブロン

1941年11月、東条英機内閣と大本営は12月8日の対米英豪開戦と南方作戦を決定。
真珠湾攻撃は、Z作戦、オランダ領インドネシア(蘭印)攻撃はH作戦などと名づけられた。
南方作戦の目標は、オランダ領インドネシアの石油であった。
この作戦のため、まず真珠湾に集結するアメリカ太平洋艦隊を叩くこと。アメリカ領フィリピンの占領。イギリス領マレー半島とシンガポールの占領。最期の目標であるボルネオ島、セレベス島、スマトラ島などを攻略してロイヤルダッチシェルの石油施設を確保することであった。
1941年12月8日、第一航空艦隊を中心とした日本海軍の機動部隊はアメリカ ハワイ州オワフ島の真珠湾を奇襲攻撃して、アメリカ太平洋艦隊の主力を壊滅させた。
1942年1月日本陸軍は、ボルネオ島へ上陸、海軍空てい部隊(落下傘部隊)がセレベス島メナドへ降下。1月25日にパリクババン、アンポン、バレンバンとロイヤルダッチシェルの石油拠点を確保していった。
ロイヤルダッチ社やシェル社は、インドネシアを脱出する際に、石油精製設備を破壊していったが、日本軍は、日本で唯一、石油生産技術を持つ新潟県の日本石油の技術者をインドネシアへ連れていって生産を継続している。

1942年2月19日日本海軍第一航空艦隊の赤城、加賀、第二航空艦隊の飛龍、蒼龍の4隻の新鋭航空母艦を中心とした真珠湾攻撃の主力部隊がオーストラリア北部の拠点都市、ダーウィンを爆撃。
投入した爆弾は、真珠湾攻撃を凌ぐ量。
主力戦闘機は、零式艦上戦闘機二十二型36機。合計242機の航空機がダーウィンの主要設備を攻撃。豪州側は、死者243名、8隻の船舶が撃沈されている。

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