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クリスマス特集

マイヤーMyer クリスマスセール

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2006年12月23日(土)へ 16時20分

マイヤーMyer
コリンズ通り Collins Street
Melbourne
Melway 1B−M5

昨夜の雨でクールチェンジして今日は20度ほどの肌寒い一日となりました。
昨日の雨は、芝生や木々にとっては多少は恵みの雨となりました。

1月1日からは取水制限が更に上がります。詳細はメルボルン市のWebにて


クリスマスセールで混雑するマイヤー店内普段に比べるとかなりの混雑ですが、メルボルンの場合、まっすぐ歩けないほどではありません。

マイヤーMyerは、メルボルンを本拠地とする豪州を代表する高級デパートです。
マイヤーの創設者シドニー マイヤー(Sidney Baerski Myer)は、ロシア移民です。1899年にメルボルンに移民しました。

ロシア人は、1800年代の早い時期からロシア帝国の拡大政策の一環として日本、豪州を始めアジア太平洋地域に探検船で来ていました。当初は、メルボルン市民からは歓迎されていましたが、1853年のクリミア戦争からはロシア帝国主義に対して疑いをかけられていました。

資生堂(Shiseido)

初期のロシア移民は、1850年代のゴールドラッシュの時期に移民を開始しています。
多くは帝政ロシアに迫害を受けたユダヤ系ロシア人といわゆるインテリゲンチャ(知識層)です。当時のロシアではユダヤ人は反ユダヤ主義のために暴動、暴力、更には虐殺の被害にあっていました。初期のロシア人の多くはメルボルンとシドニーに移民しました。メルボルン生まれのロシア移民2世の数も大幅に増えて1891年までには1000名を越えました。
1901年に統一豪州国家が成立しました。その4年後の1905年にロシア革命(第一次)が起こります。その際、白系ロシア(旧貴族など)など多くのロシア人がメルボルンに移民しました。

Chanel

1917年の第二次ロシア革命では、共産党政権に反対する多くの知識人が移民してきました。
しかしソビエト政権によるスパイが多数、送り込まれたためにソ連からの移民は1925年で打ち切られました。
1945年の第二次世界大戦後、ヨーロッパの強制収容所から多くのロシア人が移民してきました。1947年の1401人から1950年代には14000人に増加しました。ロシアからシベリアを経て中国へ逃げたロシア人も多くいますが、中国で生まれたロシア人二世は、統計上は中国人に含まれます。
1970年代に入ると、豪州のユダヤ人組織によるスポンサーシップにより多くのユダヤ系ロシア人の移民が入ってきました。そしてソビエト連邦の解体と共に移民の数も増えています。
多くのロシア移民の特徴は教育レベルが高く、英語能力も高いのが特徴です。

MAC

2001年時点でビクトリア州生まれのロシア系移民は、6000人ほどです。多くはこーフィールド(Caufield)、カーネギー(Carnegie)に住んでいます。30%がユダヤ教徒、30%がロシア正教徒(Russian Orthodox)です。今でも多くは自宅ではロシア語を話しています。
ビクトリア州にはいくつかのロシアコミュニティがあります。

Russian Ethnic Representative Council of Victoria

移民博物館web

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