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マイヤー Dジョーンズ前

バーク通りの豪州オープン

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2007年1月27日(土) 17:00(今日の一枚へ戻る)
全豪オープンテニス 第13日女子決勝 (Australian Open Tennis Chanpionships 2007)バーク通り Bourke Street
メルボルン Melbourne
Melway 1B−P5

今朝は、シティでは朝から雨でした。昼頃には横殴りの強い雨が降っていました。それでも1日中降ることはないメルボルンです。午後からは回復してきて、夕方は、まずまずの天気に回復しました。
最高気温18度、最低14度とまたまたクールチェンジしました。夜は、もっと冷えてます。

全豪オープン公式Web

全豪オープンは、1905年に始まりました。1901年に豪州は、首都をメルボルンとする6州からなる豪州連邦国家(the Commonwealth of Australia )として英国より独立しました。それまでは6つの植民地がそれぞれに英国本国と直接につながってました。英国は、豪州代表部を置かなかったのです。各植民地は、通信などの連絡はあったものの政治、経済などは完全に別の道を歩んでいました。同じ頃、ニュージーランドも英国の植民地となっていました。従ってニュージーランドも含めると7つの植民地があることになります。このことが、後々のANZAC(豪州NZ同盟)に発展する原因です。また各植民地が独自の道を歩んでいたことが、いまでも各州の制度の違いとなって現れています。

1905年に全豪オープンは、Australian Championshipsという名前でした。当時は、オープンではなくアマチュアの大会として、メルボルンの南の郊外であるクーヨン(Kooyong)ローンテニスクラブで行われていました。これは豪州連邦国家を国民に印象つけるイベントとして行われました。実際のところ連邦国家にはなったものの、国民は、あまり関心がなかったのです。1914年に第一次世界大戦が勃発しました。豪州オープンは、開戦当時は行われましたが、1916年から3年間中断しました。1915年5月4日オーストラリア人にとって忘れられないガリポリ(Gallipoli)の戦いが始まりました。豪州NZ連合軍とトルコ軍との戦いです。この結果、豪州の国家としての意識が一気に高まりました。それまでは植民地当時のままに各州がばらばらであったのが、この戦闘で、国家としての統一が進んだのです。

豪州の統一意識にNZも含まれるのが特徴的です。豪州とNZが同盟国以上の関係である理由がここにあります。ひとつの国家であった可能性さえあるのです。
1868年、他の3大大会に歩調を合わせ、オープン化に踏み切りました。プロの参加です。当時、アマチュアとプロの違いをめぐって世界的に議論が高まり、ついにオープンという道を選びました。

全豪オープン 第13日 女子決勝
Maria Sharapova - Serena Williams
0-2

全豪オープンも残すところ明日の男子決勝のみです。多くの参加選手も数名を残してみな去っていきます。メルボルンの市内の豪州オープンののぼりもさびしげです。

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