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メルボルン住宅金融組合 The City of Melbourne (Building Society) Building

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2023年2月26日(日)  responsive版
メルボルン住宅金融組合 
The City of Melbourne (Building Society) Building
エリザベス通り Elizabeth Street
メルボルン Melbourne
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メルボルン住宅金融組合は、1877年に設立された。最初の住宅金融組合は、1891年に起きたビクトリアの土地投機の崩壊の際に、倒壊した。
40以上の銀行、住宅金融組合、土地不動産会社は、1891年と92年に倒産した。

撮影データ iPhone XR
絞りF1.8 1/283秒 ISO感度 25 
2023年1月19日16:05 板屋雅博 撮影



 メルボルン住宅金融組合ビル
設計:W.H. Ellerker、E.G. Kilburn
階数:4階建て
建築年:1888年
建築様式:クラシカル
施主:City of Melbourne Building Society
一時期、Alfred Deakin.(連邦政府首相)が会長であった。急なスレート屋根、クラシカルな窓などが特徴である。
この建物には当初、オーチス水圧式エレベーター(Otis hydraulic lift)が設置されていた。メルボルンシティ・ビルディングは、1880年代のブーム期クラシカル様式の典型的で優れた作品である。



  住宅金融組合は、最初はイングランドの地方で18世紀の終わり頃に労働者階級に貯蓄と住宅所有の推進を目的として設立された。建築協会の会員は、会員自体を対象にして、会員の一般的な民間住宅(modest dwellings)購入の為の住宅ローンを可能にする資金の蓄積を進めた。会員は、交代(took turns)でローンを組む、特権を得る為にくじを引い(casting lots)た。全てのメンバーがローンを組んで、ローンを完済した時に、組合は解散した。一般的には5年から7年がかかった。自宅保有者(freeholders)もくじ引きに参加が認められ、住宅金融組合は、賢明な解放(political emancipation)への推進力であると考えられるようになった。植民地に於いては、住宅金融組合は、土地投機の理想的な方法(ideal vehicle)となった。



 
住宅金融組合は、ゴールドラッシュ以前からメルボルンに現れていた。
我々が自由で開かれた土地(free and open field)であるビクトリア植民地に移民した。
祖国英国に比べて、合法的に10倍(tenfold)のアドバンテージがあり結果が得られる。と1850年にある開拓者団体の役員が言っている。
1856年に成年男子の投票権(manhood suffrage)が認められたことは、土地の所有とくじ引きの間のリンクが断ち切られた。しかし自由主義的改革主義者(liberal reformers)は、引き続き社会主義者(Socialists)や赤い協和主義者(Red Republicans)などの平等主義者(levellers)に反対する防波堤(bulwark)であるとして、住宅金融組合を推進した。






  自由選択制運動(Free Selection movement:1860年代から各植民地政府が打ち出した土地制度)を推進した土地保有熱(land-hunger)は、メルボルンの自己改善派(self-improving)商店経営者(shopkeepers)や職人(artisans)に郊外に自宅の獲得を鼓舞した。Chartist J.B. Crewsなどこの運動のリーダーは、郊外に住む労働者階級に強い支持者を持つ民主主義推進者であった。1870年代、住宅金融組合の会員数は、人口比でイングランドの2倍の数であった。

半分以上の62の住宅金融組合は、1878年に登録された際に組合が活動を始めた地域の名前を呼称(bear)していた。1865年にスコットランド生まれの禁酒運動推進者であるジェームズ・ムンロー(James Munro)がビクトリア議会土地投資住宅金融組合(Victorian Permanent Property Investment Building Society)を設立したが、最初の明確な住宅金融組合のひとつとされている。


 ローン借入者以外(non-borrowers)から預託金(deposits)を取ることにより、また自宅購入者だけでなく土地投機者にも資金を提供することにより、恒久的な住宅金融組合は住宅投資の為に使用可能な保有資金(pool of funds)を倍増(multiplied)させた。
1870年代までに多くの住宅金融組合は、恒久的なタイプに舵を切った。
大胆な組合は、メルボルンだけでなく英国からも資金を集めた。
1880年代半ばには、住宅金融組合の資金は、貯蓄銀行(savings banks)と肩を並べるまでになり、80年代の終わりには、住宅投資部門(residential investment)では、シェアで首位となった。(advances were financing an increasing share)



 道徳の柱(pillars of morality )として、労働者階級の友として、運動のリーダー達は、ビジネを増大させ、や政治的にも立場を拡大させた。
ジェームズ・ミランズ(James Mirams)は、コリンウッドキリスト教会の助祭は、著名なリカバイト(Rechabite)運動の提唱者であり、プレミア住宅金融組合を設立した。1876年にコリンウッド住宅金融組合のメンバーとなった。



 ジェームズ・ミランズは、1880年代終盤までに、土地投融資銀行(land banks)、トラム軌道会社(tramway companies)数社、禁酒ホテル不安定なピラミッド構造(shaky pyramid)の企業群の頂点(apex)に立っており、イーストメルボルンの豪邸(grand town house)に住んでいた。

住宅金融組合が行ってきた行動の社会的な価値を推定することは困難であり、大きな地方都市の郊外にある町全外が住宅金融組合によって建設されていることが分かる。と1883年にRichard Twopenyは述べている。
この歴史家の評価は、警告している。
住宅金融組合は、は労働者階級の自宅購入者の為の資金の出どころを増加させている一方で、基金の増大するシェアは、中位の土地投機者のふところに流れ込んでいた。


 マネージャーの一部は、英国の投資家から短期間の資金借り入れをして、長期間に切り替える際に、不適切なセキュリティを行うという罠に負けた。

ジェームズ・ミランズのプレミア住宅金融組合が1890年3月に破産したが、財政恐慌(financial earthquake)の最初の揺れ(tremor)であったが、 最終的には産業全体の壊滅に及んだ(engulfed)。


 1891年12月までに他の住宅金融組合もビジネスを停止した。
土地建物の財産価値がひっくり返ったことにより、住宅の価値は、住宅金融組合が支払った総額よりも価値が下回った。
多くのローン借入者は、単に支払いを停止して、市場から退場した。
住宅金融組合は、突然、不本意に、販売できない数千の郊外、不動産の所有者になった。




 1890年代の銀行や金融機関の崩壊は、メルボルンの住宅金融組合運動に壊滅的な打撃(fatal blow)となった。

1900年代初頭には、住宅金融組合は労働者階級自宅購入者の中庸なな主要資金源として産業界に留まった。

1950年代には、新しく住宅を購入する資金源として20%のシェアを占めたが、60年代、70年代には更にシェアを高めた。


 
住宅金融組合が土地投機ブーム期の過度な投機に陥らないように厳しい政府の規制が取られたが、

ジーロンを基盤とするピラミッド住宅金融組合(Pyramid Building Society)が1992年に崩壊すると一般の非難(recriminations)が集まり、100年前とほぼ同じ事象が異様な記憶(uncanny reminder)が蘇ってきた。



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