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イースタンマーケット Eastern Market

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2015年4月26日(日)
イースタンマーケット Eastern Market
サザンクロスタワー Southern Cross Tower
エキジビジョン通り
バーク通り、リトルコリンズ通り
Exhibition Street and Collins Street
メルボルン Melbourne
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イースタンマーケットはメルボルンの開拓初期の1840年代に作られた3つの市場のひとつ。1847年に開設され、1960年に解体された。現在はサザンクロスタワーとして州政府の事務所が入居している。パディーズマーケット(Paddy's Market)の別名もある。

撮影データ Cann EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF8.0 1 /160秒 ISO感度 100 露出補正-2/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2014年1月17日10:30 板屋雅博 撮影

 メルボルンは1835年にタスマニアからの移民で町が始まった。1837年のシティの町割り(ホドルグリッド)の際に市民用途としてバーク通り、エキジビジョン通り、リトルコリンズ通りに面した場所に、割り当てられていた。1841年、NSW植民地政府はメルボルンに設置予定の市場の責任者を推薦で選んだ。一般小売市場は1847年にオープンした。
1857年に、植民地政府は市政府に対して3000ポンドを貸与して市場の建設を委任した。1858年にはそれ以前の婦人用刑務所の場所まで市場の範囲が拡大した。
1859年にはエキジビション通りに並行して南北方向に4本の市場小屋やアーケードの列がオープンした。1865年には更に拡張された。


 イースタンマーケットは、1850年代から果物や野菜類の卸売市場として、メルボルンの繁栄の時期には週末の夜の社交場としても活躍し、1900年代に入ると中古品市場としても客を集めた。果物、野菜、鶏などの家禽類の市場は、水曜日と土曜日の午前中に市が立った。イースタンマーケットは、メルボルンの第一市場としてウェスタンマーケットを凌駕していた。朝10時以降には家畜用の干し草の市場となったが、それ以前にはフリンダース通りとスワンストン通りの交差点のあたりに干し草とトウモロコシの市場があったが、セントポール大聖堂の建設によりイースタンマーケットに移転してきた。

1846年には3つの市場予定地が選定された。キャトルマーケット(Cattle Market、家畜マーケット)で11エーカーの広さがあった。ウェスタンマーケットは一般市場でウィリアム通りとコリンズ通りの交差点南東側に1エーカーの土地が割り当てられた。

 イースタンマーケットはバーク通りとステファン通り(Stephen Street、後のエキジビジョン通り)は2エーカーであった。1853年に発行されたFrederick Proescheの「メルボルンの商業地図」という本によると他にもふたつの小さな市場が存在している。同本によるとイースタンマーケットには干し草、麦わら、果物のセクションがあり、留置場も内部の南東角にあった。1859年の再開発の際に市場の中に「古い女性刑務所」があったとされている。1848年から1849年1年間のメルボルン町議会の記録によると3市場の収入と支出は下記。
キャトル市場 937ポンド、168ポンド
イースタン市場 370ポンド、78ポンド
ウェスタン市場 275ポンド、78ポンド
3市場の中でウェスタンマーケットは最も利益が少ないが、翌月の市議会でAlderman Johnstonはイースタンマーケットは消滅の危機にあると論じた。
1850年代にも論議は継続した。

 1876年に建築コンペがあり、メルボルンのNo1設計であったリード&バーンズ設計事務所(Joseph Reed とFrederick Barnes)が一等を獲得した。新しい2階建ての市場が1879年12月22日にオープンした。バーク通りとエキジビジョン通りに面した場所には小売店が並び、リトルコリンズ通り側には肉屋が並んだ。市場の2階の天井はガラス張で日光が採光された。新市場の落成式には青年
産業博覧会が開催された。その頃、クイーンビクトリアマーケットが急速に大きくなってきており、イースタンマーケットの卸売市場としての重要性が低下してきた。干し草の生産農家はより便利なフレミントン道路のヘイマーケットに1874年に移転した。1880年以降のイースタンマーケットは一般小売マーケットや娯楽場として市民には理解されるようになり卸売市場としての機能は無くなっていった。

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 1860年には市民フォーラムが作られ、青空のもとミーティング、講義、政治活動などが行われ、政治家の遊説に多くの観客が集まった。土曜日の夜のパディーズマーケットは1860年代初頭から始まった。日用品から肉、塩づけの魚、野菜、ほうき、陶磁器、食器、洋服、布地、雑貨小間物、本、玩具、石鹸などありとあらゆる商品が販売された。有名なお菓子屋さんがあった。市場には遊園地のような各種の娯楽施設もあった。覗き見小屋、バスケットのゴールリング、娯楽用射的台などが観客を集めた。人相見、占い師、偽医者、歯医者なども屋台を出した。刺青師チャーリー( Charlie the Tattooman)、有名な占い師マダムジンガ (Madame Zinga Lee)、安物ジョン、パンチとジュディ(Cheap Johns and Punch and Judy)のショーなどもあった。雄弁家の熱弁と業者の叫び声がブラスバンドの音楽などもあってひどい騒音となって、グロテスクな混沌の状態となっていた。1900年代になっても日用品、中古品やペット、音響製品などの安売り商品が販売されたが、土曜夜の市場は廃止された。

 1865年にEdward William Coleがイースタン市場に本屋を開いた。1874年には市場の近くのバーク通り沿いにコールのブックアーケードを開設した。英国の作家ラドヤード・キップリングや米国の作家マークトウェインも来豪の際に訪問している。
市場の跡地に1962年にサザンクロスホテル(Southern Cross Hotel)が建設されたが、1999年に解体された。

Working Melbourne

サザンクロスタワー(Wikipedia)

イースタンマーケット

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 土曜日の朝のイースタンマーケット

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