シティ案内

フリンダース通りトップ

移民博物館 旧メルボルン税関

メルボルン百景トップ

移民博物館 Immigration Museum
旧メルボルン税関 Old Custom House
フリンダース通り Flinders Street
Melway 1A-F9

メルボルンは、移民の街です。
原住民のアボリジニを見かけることはビクトリアマーケットで日曜日に演奏をしているのを見る以外は、あまりありません。
1835年にタスマニアのビジネスマン、ジョンバットマン(John Batman)がメルボルンに殖民を開始していらい、メルボルンは、移民が建設してきた街です。

メルボルンの歴史は、移民の歴史と言い換えることができます。ここ移民博物館には、メルボルンの歴史が全てあると言ってもいいと思います。入場料$6。
Immigration Museum 公式Web
Old Customs House公式Web
400 Flinders Street, Melbourne
Ph. 03 9927 2700
10.00am to 5.00pm daily
1Fにあるこの資料室とギフトショップは、入場無料です。移民の歴史が何でも調べられます。
豪州における日本移民の歴史です。最初の税関(Custom House)は、1836年にシドニー総督のバーク(Richard Bourke)によって作られました。粗末なテント小屋でした。当時はメルボルンは政府組織がなくジョンバットマンの不法占拠によってメルボルンが成立していました。

Richard Bourkeの名前は、Bourke通りに名を残しています。1837年には140隻の船から関税を徴収しています。その後、人口が徐々に増え貿易も拡大したために、1841年にブルーストーン製の二階建ての税関が建設されました。当時は、保税倉庫システムを取っていました、1951年にゴールドラッシュが始まると租税収入は一気に10倍以上になりました。取扱量の急増に対処するために、現在の建物は1854年に建設を開始しましたが、完成は1876年です。1915年に所得税が導入されるまで、税関の収入は、ビクトリア州政府の5分の4を占めていました。現在のこの建物の設計は、州議事堂の改修を設計したのと同じPeter Kerrです。

初期の頃の帆船です。クリッパーと呼ばれていました。イギリスからメルボルンまで4ヶ月の船旅でした。速力の速い船では2ヶ月の旅でした。当時の羅針盤を使用するいわゆる天測による海洋航法は、理論上は優れていたものの実際にはかなりの難しい航法でした。南北、及び東西へ真っ直ぐに走るしかありませんでした。従い、まずイギリスなどのヨーロッパから真っ直ぐに南下して一旦、ブラジルなどの南米に到着します。そこで物資を積み込んで、こんどはアフリカ最南端のケープタウンに到着します。ケープタウンは1800年代の最初の頃に大英帝国の領土になっています。ケープタウンを出航した船は、一路、豪州大陸の最南端を目指します。そこで問題になるのが豪州とタスマニアの中間にあるバス海峡です。

初期の一般船室(中に寝ているのは子供です。)このような劣悪な環境でした。大部屋のみで個室キャビンはありませんでした。安定した天候の基ならばまだしも冬の時期には最悪の状態となりました。
大西洋を越えて体力を消耗した段階で、既に南極海に近く暴風に近いバス海峡を乗り切るのは並大抵ではありません。タスマニアの州都であり良港であるホバートがメルボルンよりも32年も早く建設されたのはこの理由によります。また南アフリカと豪州がいまでも強い絆で結ばれているのは上記の理由だと思います。アデレードを過ぎグレートオーシャンロードにはいり、メルボルンまであと1日、2日のところでたくさんの帆船が難破しています。メルボルンとタスマニアの中間にキングアイランドがありますが、この島の周辺でもたいへんな数の帆船が難破しています。

後期の一等船室(キャビン)です。個室になり個人のスペースも拡大され衛生状態も格段に進歩しました。これは、鉄の使用により大型船が可能になったこと及び石炭、重油を使う機関を持つ機帆船から汽船へ進化したからです。それでもビタミンの発見までは船旅は非常な困難と病気、死を伴うたいへんな旅であったことは間違いありません。

長い航海で一番、怖かったのが壊血病ですが、1800年以前にイギリス海軍により新鮮な野菜と果物を食べることによ防げることが発見されていました。このことにより超長距離の船旅も可能になっていました。ブラジル、ケープタウンでは大量の野菜、果物を仕入れたのです。しかし脚気の原因がビタミンB1不足であることがわかるのは1910年になってからです。

メルボルンの湾(Port Phillip)に到着した外洋船は、ヤラ川の沖に停泊し、小船より浜辺に降ろすというやり方をしていました。しかし1851年のゴールドラッシュにより人口が急増し、このやり方ではとても間に合わなくなりました。そこで近代的な桟橋を建設することになったのです。それがPort Melbourne(Sandridge)に建設されたステーションピア(StationPier)です。当初は、Raiway Stationと呼ばれていました。メルボルン建設の翌年1836年のメルボルンの人口は177人、1851年 20,000人、1854年には30万人に急増しました。急増する移民に対処するため、豪州最初の鉄道が同じく1854年に建設されました。 ステーションピアとメルボルンの玄関駅となるフリンダースストリートステーションを結ぶポートメルボルン線です。 メルボルン建設当時の歴史です。メルボルンの歴史を知って散歩するともっと楽しくなくこと請け合いです。

inserted by FC2 system