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旧メルボルン税関 Melbourne Customs

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税関建物

税関歴史

2009年5月31日(日)
旧メルボルン税関 Melbourne Customs
フリンダース通り Flinders Street

今日で丸3日間の晴天となった。気温も18度くらいまであがってさわやかな秋の日曜日となった。

昨年の今日 2008年5月31日(冬のパーティ

Canon EOS 5D MarkUプログラムAE シャッター速度1/200秒  絞りF7.1 評価測光  ISO感度 200 AWB  画質圧縮率 sRAW2  レンズ EF24-70mm f/2.8L USM

 最初の税関(Customs House)は、1836年にNSW植民地総督のバーク(Richard Bourke)の命により、初代のメルボルン行政官ウィリアムロンズデールによって作られた。
最初の税関員ロバートウェブ(Robert Web)は、ヤラ川沿いに粗末な丸くて白いテント小屋を建てた。
シドニーから持ってきた物資をヤラ川から荷揚げしてテント小屋に持ち込んだ。

テント小屋の税関

1839年のメルボルン
ロバートウェブは、1837年には140隻の船から関税3000ポンドの関税を徴収している。
その後、人口が徐々に増え貿易も拡大したために、1841年にブルーストーン製の二階建ての税関が建設された。

 1840年代には、拡大するメルボルンの商品需要に合わせて、海運貿易は急速に拡大した。
莫大な量の酒、たばこの輸入により、税関収入は拡大していった。

輸入した酒類

またメルボルン近郊の農地からも食料品がメルボルンへ集まってきた。
ジローンの家畜や羊毛でさえも、税関で関税を払わされたために、ジローンの商人や農家を激怒させている。

1840年には、メルボルンは自由港宣言を出している。
商社は、輸入した商品をいったん保税倉庫へ持ち込む。
保税倉庫に入れておく分には関税はかからず、その商品を市場で販売する場合に関税が発生する近代的なシステムだ。
そのため、税関の周辺には保税倉庫がたくさん立ち並ぶことになった。

 1950年代にゴールドラッシュが始まると、メルボルンの貿易量は、劇的に増えた。また移民もたいへんな数に上った。
1851年には、メルボルンは、NSW植民地から独立するが、新政府の財政が課題であった。

当時は、所得税を導入していなかったので税関は、新政府の唯一の収入源であった。
ゴールドラッシュによってにわか成金が続出したメルボルンは、贅沢品を次々とヨーロッパから輸入した。
輸出される金と輸入される商品の両方に関税を課していたので、税関の収入は莫大なものとなった。
ゴールドラッシュ以前の1850年には、年間で84000ポンドの収入があったが、1854年には、その数字は1か月のものとなった。

税関は、港町の中心地に立地していた。数多くの船長や船員が税関を訪れ、税関員の数も多数に上った。
ビクトリア植民地の金鉱山や、農業地区への玄関口として、メルボルンの港は繁忙を極めた。
新しくやってきた移民は、港の周辺にたむろし、到着した外洋船は、大量の物資を供給し、ビクトリアの黄金と羊毛を積んで出港した。
大量の物資は、メルボルン最初の市場であるウェスタン市場へ供給された。
ウェスタン市場は、メルボルン税関のすぐ北側に位置した。
税関の周辺には、多くのホテル、レストラン、バーが立ち並び、メルボルン随一の繁華街ともなっていった。

税関と港町



移民博物館の入口。入場料を払って2階へ。左側には、お土産コーナーがある。奥にはカフェがある。1階は入場無料。

メルボルン税関は、フリンダース通りにある。フリンダース駅の西側で、クイーン橋の北詰だ。
クイーンズ橋の北西側がクイーンワーフだ。現在は、エンタープライズ公園となっている。

Walking Melbourne


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