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ロンズデール通り

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メルボルン病院 Melbourne Hospital

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JJ Clark

建築歴史 1910−1919

2017年5月28日(日)
メルボルン病院 Melbourne Hospital
Queen Vicotira Hospital and fence
旧クイーンビクトリア女性病院とフェンス
ロンズデール通り
メルボルン Melbourne
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ロンズデール通りのQVセンターの巨大なビルに囲まれて建っているのは、かつてブロック全体を占めていたメルボルン病院の唯一現存する建物である。メルボルン病院はロイヤルメルボルン病院となりパークビルに移転した。その後、女性スタッフによる女性の為のQueen Vicotira Hospitalが移転してきた。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 8.0 1/160秒 ISO感度100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2017年1月16日 10:14

かつてロンズデール、スワンストン、リトルロンズデール、ラッセルの各通りで区切られた場所を占めていたクイーンビクトリア病院だが、現在は、タワーと周囲を囲うフェンスだけが現存している。建物中央部分の2階から3階にかけてバルコニー付のロジア(屋根付きの柱廊)が目立つ形で設置されている。タワー部分だが、かつては病院にたくさんあった建物群のひとつであった。タワーは、頭部丸屋根小屋を持ったふたつの尖塔を左右に持っている。ブルーストーンの上に設置された鉄製の柵状フェンスは、ロンズデール通りの1/3の長さまで及んでいる。ブルーストーンの基礎はロンズデール通りのスワンストン通りからラッセル通りまでの全域にあり、この部分全体にフェンスがあったことが分かる。病院の大きなスケールが理解できる。

メルボルン病院
Melbourne Hospital
QV病院タワーとフェンス
Queen Vicotira Hospital and fence
210 Lonsdale Street
建築年: 1910 年
建築家:John James Clark、Edward James Clark親子
階数:5階建て
建築期:エドワーディアン

eMelbourne 

VHD



旧クイーンビクトリア女性病院タワーは、エドワード期の代表的な病院として旧クイーンビクトリア病院の唯一の残存物である。クイーンビクトリア病院は、建設当時オーストラリアで最も進んだ病院であった。革新的なデザインが実施されており、装飾を施されたエクステリアの中に機能的な要素が配置されている。ビクトリア州で最大のエドワード期の病院であった。パビリオン建築コンセプトでデザインされている。オープン式バルコニーを備えた多層階パビリオンビルは、20世紀初頭に流行した病院デザインである。ビクトリア植民地公共建設局のクラーク親子の代表的な作品である。特にJJクラークの没後に完成したがJJクラークの代表例と考えられている。


メルボルンは、1835年に移民が開始されたが、最初の10年間は、その場しのぎの病院や外来患者設備しかなかった。最初の病院は、ウィリアム通りの留置場と同居しており、その次にはリトルコリンズ通りの小さな小屋を借りていた。次にはバーク通りの2階建てに移転した。メルボルン市民の強い要望があり、植民地政府の拠出金と市民の寄付で建設計画が決まった。この場所には、1846年にメルボルンの最初の公共病院がこの場所にスワンストン通りに面して建設され、1848年3月15日にオープンした。石材で建設されたメルボルン唯一の公共総合病院は、23年間、存続した。1856年に女性と子供のための産科医院が設立された。メルボルン病院では麻酔や初歩的な治療のみが行われた。患者はしばしば病院での感染で死亡し、外科手術は危険なほどのレベルであった。本格的な病院の設立が望まれた。


病院の近代化のため、絶え間なく増築や新棟の建設が続き、1880年頃には当初の建物は、見当たらない状態となっていた。1900年代初期までにメルボルン病院で治療を受けた患者の数は、合計100万人を超えた。医学の進歩と治療設備の大幅な改善により建物も改革が必要となっていた。メルボルンは小さな寒村から大都市に変化してきて、病院への要望も変化していた。1907年頃にはメルボルンの人口は巨大化しており、近代的な病院が必要になった。当時のメルボルン病院長ジョン・グリス(John Grice)は、エドワード・ウィルソン財団(Edward Wilson Trust)が10万ポンドをロンズデール通りの現在地に新病院建設資金として拠出したと述べている。




エドワードウィルソンは、アーガス紙のオーナーで1848年から1856年まで編集長を務めた。1878年に亡くなった後、巨大な土地資産で財団を作り、慈善活動、特に病院に寄付された。この巨大な寄付によりメルボルンの公共総合病院が世界レベルに発展する機会になった。1904年に設計コンペが実施され、クラーク親子は2位であったが、ウィルソン財団の推薦で決定された。1910年にはメルボルン病院が建設された。新しいメルボルン病院は、当時の世界最新医療技術を集めて建設された。メルボルン病院はロイヤル・メルボルン病院と名前を変え、1944年にパークビルに移転した。

クイーンビクトリア・メモリアル病院がビクトリア州の女性患者のために1946年に設立されて、操業を開始した。現存する建物は、当時の住居棟であった。メルボルン病院のように当時の大型公共病院はシティに作られたが、当時は住民の多数もシティや周辺部分に居住していたからである。シティ周辺が経済的、政治、社会生活もシティが中心であった時代である。第二次大戦後に住民が郊外へ移転していき、公共病院が中央部に存在する意義がなくなってしまった。


1910年にJ.J. Clarkは、72歳であったので、後半は息子のエドワードが設計を続けた。
看護婦棟と外来患者棟:1910年10月
内科棟:1911年1月
傷病、手術棟:1911年10月
外科棟:1914年6月1月
病理学棟:1915年
食堂:1915年6月25日
食堂の完成でメルボルン病院のすべての建設は完成したが、同日にジェームズクラークは他界している。

QVWC



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