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メルボルン監獄 Old Melbourne Gaol

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 政府建築物 (刑務所)

メルボルン建築史 1850‐59

2017年7月29日(土)
メルボルン監獄 Old Melbourne Gaol
ラッセル通り Russel Street
メルボルン Melbourne
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メルボルン監獄は、1842年から1929年まで運営された。有名なブッシュレンジャー、ネットケリー(Ned Kelly)を133名がこの地で処刑された。1851年のゴールドラッシュで人口が急増した。現在の旧メルボルン監獄は、ビクトリア公共建設局によって1851年から1864年にかけて段階的に建築された。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF10.0 1/400秒 ISO感度 200 露出補正-1/3 太陽光 JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月21日18:43 板屋雅博 撮影


 設計は公共建設局主任設計者のヘンリーギン(Henry Ginn)である。残存する部分のうちで最も古いのは第二獄舎(1851年〜1853年)であり、現在は、監獄博物館として使用されている。英国の先進刑務所技術者ジョシュア・ジョブ( Joshua Jebb)が提唱した共通スペックであるロンドンのペントンビル刑務所(Pentonville)をモデルとしている。中央棟(1860年: central hall)を始点として放射状に延びる3つの長いブロック獄舎があった。礼拝所や入口エントランス、残存する壁は、1860年代初期の建築物である。獄舎の礼拝所は、公共建築局の H.A. Williamsの設計である。北側ファサードや礼拝所の鐘小屋は、イタリア様式で. J. Clark又は Gustav Joachimi(共に公共建設局)の設計と思われる。
1850年代から1860年代にかけて、ビクトリアの9つの刑務所が建設され、メルボルン刑務所もそのひとつであった。


建物のすべてはビクトリア産のブルーストーンで建設されている。ビクトリアで最古の刑罰施設であり最も有名な犯罪者であるネッドケリー(Ned Kelly)が、他の多くの犯罪者と同様に収監され、処刑され、埋葬された。メルボルン監獄は、1923年に閉鎖され、多くの建物は、解体され、一部は隣接するCity Watch House(未決拘置所)や警察署、エミリーマクファーソンカレッジ、RMIT大学校舎などに利用された。

バララット刑務所

獄舎棟は、良く保存されているが、これは受刑者の努力によって良い状態が保たれたと考えられている。チャペルとエントランスビルは、良く保存されており、刑務所の中心地であった。建物内部は変更が加えられている。


 メルボルン監獄はメルボルン最古の刑務所であり、留置場、裁判所、民事裁判所、女性用刑務所など実際の生活に関わりが深い刑務所であった。

現在の刑務所跡地は、建設当時の刑務所の姿を随所に留めている。刑務所で絞首刑にされた犯罪者の埋葬地でもあった。有名なネッド・ケリー( Ned Kelly)もこの地で処刑されて、敷地内に埋葬された。
1857年、59年に増設され、その際に境界壁が延長された。1860年にエントランス棟やセントラルホール、チャペルを含む北側棟が建設された。
1862年から1864年に西側に女性囚人棟が建設された。


 1864年に境界壁や刑務所全体が完成した。
体操用広場、病院棟、チャペル、風呂ハウス、、職員宿舎などを含めてこのブロック全体を占めた。
刑務所長公舎は、フランクリン通りとラッセル通り交差点に建設され、スワンストン通りに刑務官用に17住宅が建設された。
1850年代から60年代にかけては、看守と家族は、刑務所敷地内に住んでいた。

 ペントンビル刑務所は、1842年に出来た最新設備を持つ刑務所で、アメリカフィラデルフィアの東部州立刑務所(1829年建設)で開発された画期的な分離システム(Separate System)というコンセプトを持っている。中央部にホールがあり、そこから放射状に独房が配置される設計。中央部のホールに刑務官を配置することにより、放射状の独房が一目で見渡せる利点がある。バララット刑務所の主要施設のデザインは、英国監獄総監のJoshua Jebb。設計は、ビクトリア植民地公共建設局。

VHD  wikipedia

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