Miss Gertrude K Rileyが焼死した。3階に入居していたFederation Filmsの取締役であったMorton Parker
Pimentelが意図的に火事を起こしたとして起訴されたが、証拠はほとんどなかった。タッターセルズクラブビルは1階に商店、2階と3階にはクラブ会員用にバー、レストラン、面談ルームがあった。タッターセルズクラブ会員は、競馬界の会員や、上層階の事務所の入居者などであった。当時の著名な建築家ハリーノリスの初期の設計作品である。タッターセルズクラブは、解散して他のクラブと合併し、1937年にこのビルを退去した。空き部屋は賃貸され、バーや造作は1940年に売却された。1930年代と1940年代初期に同ビルは、豪州共産党ビクトリア支部の事務所と青年部門である民主青年同盟(League
of Young Democratsが入居していた。
1940年6月17日に豪州共産党は、独ヒットラー(Hitler)と同盟を結んだスターリン(Stalin)のサポーターであり、反戦争、反愛国として豪州連邦政府内郭は、同党を非合法であると決定し、その数分後に警察により強制捜査を受け、トラック2台分の書類を押収した。民主青年同盟は免れていたが、1941年2月25日に内郭によって非合法と宣言された数分後に強制捜査となった。1948年にビルの名前がカーティンハウスと変わった。カトリック運動豪州事務局(National
Secretariat of Catholic Action)や各種カトリック教関係団体や本屋が旧クラブルームや1階部分に入居した。この名前は、戦時中の労働党で在職中に死去した連邦政府首相ジョン・カーティン(John
Curtin)に由来すると云われている。カーティンは熱心なカトリック信者ではなく、名前がいつ何故変わったかは知られていない。
1967年にギリシャ人社会のリーダーによって作られた民間のギリシャ語学校である現代ギリシャ学校(Academy of Modern Greek)が賃借入居した。増加するギリシャ人修学年齢の子供たちの教育需要によりギリシャ語、歴史、文化などを教えた。スピロ・リオリオス(Spiro
Liolios)が校長に指名され、数か月以内にスピロと奥さんのコウラ(Koula)学校の所有者となった。夫婦の教育的なリーダーシップにより繁栄し、長い間メルボルンで最大のギリシャ語学校となり、1977年には6階の全てを使用した。その後、コリンズ通り187のTheosophical
Society Buildingに移動し、1990年代まで営業を続けた。
1960年代、70年代にリオリオスは、 Golden Guide Publishingの名前でいろんなビジネスをビルの中で行った。無料コミュニティガイドブック、ギリシャ人用ガイドブック、イタリア人社会用のイタリアンガイド、秘書学校、スワンストンカレッジなどをカーティンハウスなどであった。1980年代から90年代は家賃の安さで
Genealogical Societyなどいろんなビジネスが入居した。ポッと出た展示会やいかがわしい店舗なども入居した。2000年には、Tim
Peachをリーダーとする投資家グループに買収された。
改修や近代化を施した後、カーティンハウスは、Metropolis BookstoreやCookie Restauranが旧クラブルームに入居し、屋上にはRooftop
Cinemaが2006年にライブミュージックのToff in Townが2007年に入居した。