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 社会史

アベケット通り

ウィリアムアベケット William a Beckett

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2015年11月3日(火)
ウィリアムアベケット
William a Beckett
アベケット通り
A'Beckett Street
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map
 
アベケット通りはラトローブ通りに並行して、1本外側に存在するがスワンストン通りからウィリアム通りまでの限られた通りであり存在感は薄い。アベケットの名前はメルボルンの初代司法長官に由来する。シティエッジホテルは現在、筆者の定宿である。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 絞り8.0 1/800秒 ISO感度 200 露出補正 オート PG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2015年1月24日14:40


アベケット通りの名前はビクトリア植民地初代最高裁判所長官サーウィリアムアベケット(1806 - 1869)に由来する。アベケットはロンドンで生まれ、父も弁護士であった。ウィリアムの弟、Gilbert Abbott a Beckettは英国パンチマガジン誌の創業スタッフのひとりであり、英国の漫画史(Comic History of England)の作家であった。。パンチ誌は1841年創刊の週刊誌でユーモラスな風刺漫画が有名であった。
ウィリアムアベケットはウェストミンスター学校を卒業して「ダンバートン城の攻防」(The Siege of Dumbarton Castle)を著作した。その後ウィリアムアベケットは法曹界に入った。

パンチマガジン(Wikipedia)

正面はメルボルンセントラル 

メルボルンセントラル (メルボルン百景)

 1837年、アベケットは豪州NSW植民地に移住し、自由ニュース新聞('Literary News)を発行した。1841年にNSW植民地副法務事務官(acting solicitor-general)に任命された。1843年には正法務事務官となった。更に副裁判官、下位裁判官となった。1846年にNSW植民地最高裁判所の出張所としてメルボルンの家庭裁判所に転勤となり、所有権関係の初等裁判官であった。当時のメルボルンは設立から10年目で人口2万人ほどの地方都市であった。任命に伴い下級勲爵士(knight bachelor)に叙勲された。1852年、ビクトリア植民地が創設されるのに伴い、アベケットは初代司法長官に任命された。その後、病気の療養の為、2年間英国や欧州で過ごした。

アベケット通りとエリザベス通りの交差点
正面はヘアーサロンミノと日本韓国料理ウメハナ。


 1854年12月にアベケットはメルボルンに戻りユーレカ物資集積所の戦い(Eureka Stockade)の裁判に参加した。ユーレカホテルの放火について扇動的な発言をしたとして批判されているが、実際には副裁判官Redmond Barryの発言であった。アベケットは体調を崩したため、1857年に司法長官を退任して英国へ帰国した。

ユーレカの反乱 (メルボルン百景)

 アベケットは政治的には保守派でビクトリア植民地ゴールドラッシュによって引き起こされた社会の混乱に強く反対した。コロナス(Colonus)という作家名でゴールドラッシュにおけるモラルと社会への影響に関する記事を1852年に書いている。また同年にはホブソン湾でネルソン号での金塊強奪事件の裁判など重要な裁判で裁判官を務めた。

アベケットは1832年に Emily Hayleyと結婚し4人の子供を設けたが、エミリーは1841年に他界し、アベケットはエミリーの妹Matildaと再婚、9人の子供が生まれた。アベケットは1869年にロンドンで他界している。

シティエッジホテル


 

William A'Beckett(Wikipedia)


William A'Beckett (豪州伝記集)

Street Name of Melbourne

パンチマガジン(Wikipedia)


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