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リトルロンズデール通り

カッセルデンの小屋 Casselden Cottage 

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2012年2月15日(水)
カッセルデンの小屋
Casselden Cottage
17 Casselden Place
リトルロンズデール通り
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map
 
かつてメルボルンにリトルロンと呼ばれたスラム街があった。リトルロンズデールの東地区のことだ。カッセルデンの小屋は、その当時を彷彿させる唯一の名残だ。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 絞り7.1 1/80秒 ISO感度 100 露出補正 オート PG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2011年1月

この建物は、6軒が繋がった長屋として建っていた建物の最後の1軒。他の長屋部分は、壊されている。一軒の家には二部屋があった。1877年にジョン・カッセルデンによって建築された。カッセルデンは、靴職人であり、小規模の開発業者であった。この地域は、かつては、リトルロンと呼ばれるスラム街であり、この建物は、リトルロンの最後の建物となった。靴職人などの小規模な工場がひしめく汚いよごれた地域であり、コリンズ通りやバーク通りに華やかな「マーベラス・メルボルン」がある対極の地区であった。



 リトルロン・スラム街は、ロンズデール通り、スプリング通り、ラトローブ通り、エイジビジョン通り(当時の名前は、ステファン通りStephen Street)で囲まれた地区。リトルロンズデール通りは、その中心部を通る通りで、このスラム街の代名詞であった。
ステファン通りは、1880年代にカールトンガーデンで万国博覧会が開催された際に、エキジビジョン通りに名前を変更された。
現在ではほとんど片鱗もないが、当時は、材木とレンガで造られた小屋がひしめきあい、小さな路地がたくさん通っている典型的なスラム街であった。移民の中でも貧しい下層階級の人々が、小規模な工場を作り、またたくさんの職人などがその日暮らしで生きていた。


 安宿、安い飲み屋、売春宿、阿片窟などがたくさんあり、赤い街灯をともしていたので、レッドライト地区とも呼ばれていた。コソ泥などの犯罪者も多く、治安もメルボルンで最悪の地帯であった。当時のメルボルンは、ゴールドラッシュで1851年に3万人であった人口が数年で30万人に膨れ上がると云う急膨張した時代。多くは金鉱山で働く鉱夫あったが、その金を求めて、たくさんの売春婦もメルボルンに流れ込んでいた。
医者や病院、薬局、医薬品もまったく不足しており、また抗生物質もない時代。不衛生なスラム街では、多くの病人がばたばたと野たれ死んでいった。メルボルン最初の死体安置所は、フリンダース駅の東側、プリンセス橋のたもと、ヤラ川のそばに作られ、その後、30年間もそこにあった。
1800年代のメルボルンは、世界の多くの国々と同様に売春自体は、合法であった。

  当時の一流紙”アーガス”は、売春婦たちは、最低最悪の女性たちで、汚れたの言葉を話し、その行動もひどいと評している。
”午前11時から、翌日の午前3時頃まで、30人ほど14歳から22歳くらいまでの若い女性が売春の街をうろついている。彼女たちは、夜中、男をあさり、隙あらば泥棒を働こうと見張っている。警察がパトロールしている間は、逃げ散っている。”

当時、マダム・ブラッセル(Madam Brussels)という高級売春宿が、ロンズデール通りにあり、バーク通りなどの金持ちの男性をたくさん引きつけていた。マダムブラッセルとは、Caroline Hodgsonというロンドンからの移民女性。彼女は、数か所に高級売春宿を経営していた。1867年には、メルボルンの警視総監が、ロンドンから訪問していたエジンバラ候(ビクトリア女王の次男)をお連れしているという記録があり、たんなる売春宿以上の高級接待所の意味もあった。


アーガス紙

  このカッセルデンの小屋は、ある中国人の売春婦によって経営されていたが、彼女の芸名は、「よこはまYokohama」という。中国名Tiecome Ah Chung。1920年代まで存在していた。

Wikipedia

Little Lon

Madame Brussels


1950年のカッセルデン小屋
6ユニットの長屋であった。
現在、残存しているのはそのうちのひとつ。

Walking Melbourneより
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