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ヒープコートウェアハウス Heape Court warehouse 

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メルボルンの倉庫

2022年2月20日(日)(responsive版)
ヒープコートウェアハウス 
Heape Court warehouse
ヒープコートレーン 
Heape Court Lane
361-365 LITTLE LONSDALE STREET
この場所の地図(Googole Map) 

ヒープコート(Heape Court)倉庫は、ロンズデール通り361-365番地の裏手にあるが、1854年に建設された。このシンプルな二階建てでブルーストーンの土台の上に赤レンガを建材に使用し、屋根裏部屋付きの切妻屋根(gable roof)の構造である。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF2.8 1/320秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2019年1月19日17:13 板屋雅博 撮影

 施主は商人で一般洋服商のジョセフ・バートン・ピンセント(Joseph Burton Pynsent)である。建築会社は、ノースメルボルンのホルムズブラザーズ(Holmes Bros. )会社であった。切妻屋根のエンドは、パラペットを施してある。パラペットとは、建物の屋上やバルコニーの外周部の先端に設けられた低い立ち上がり部分の壁で、屋根の防水などの役割がある。南側の切妻には、単純な笠木(coping)のディテールが施されている。1860年には、ヒープコートには、タバコや嗅ぎたばこ(snuff)の製造業者であったGideon Heard and Coが入居していた。

 この建物は、後年に鍛冶屋(blacksmith's shop)の店舗として使用された。鍛冶屋のジョン・クーパーと息子商会(John Cooper and Sons,)は、金物卸商(wholesale ironmongers)で輸入業者でもあった。ジョン・クーパーと息子商会は、近隣のいくつかの建物複合体の全体を所有して、店舗、作業所、広いヤードを所有した。ヒープコートウェアハウスは、各種の会社が入居し、1850年代からシティの商業地区で重要な役割を果たした。1800年代のメルボルン中央部の横丁( laneways)の遺構を現在まで残している。19世紀のメルボルンの商業地区の生活の思い出を重いおこすことが出来る。

  ヒープコート倉庫は、ゴールドラッシュ時の煉瓦製倉庫の例として貴重な実例である。1850年代初期の伝統的な技術を示している。ヒープコートは、非常にスケールが大きな建築群で、エリザベス通り全体を特徴づける1800年代中旬の開発であった。ヒープコート建築群は、他にも歴史的な建物があり。1853年建築の2階建てブルーストーン製ウェアハウスは、エリザベス通り303ー305番地の裏手の建物、1887年建設のウェアハウスは、トウェンティマン&アスキュー(Twentyman & Askew)設計でリトルロンズデール通りの裏側にある。
ヒープコート倉庫の土地は、1851年に200ポンドでヒューグラス(Hugh Glass)が200ポンドで購入した。グラスは、1854年に土地を分割販売し、南側の部分 (20 ft x 60 ft) をジョセフ・バートン・ピンセント(Joseph Burton Pynsent)に450ポンドで売却した。

 1857年3月5日のアーガス紙(The Argus)の広告

求むシープワッシュタバコ(SHEEPWASH TOBACCO)
Heard and Co ,10 Little Lonsdale Street west.

広告 1857年8月4日 アーガス紙
砥石求む。新品又は中古。幅6インチから9インチ G. Heard and Co,, 10 Little Lonsdalo-street west.

求む。1600ブッシェルのスコットランド・オート麦(SCOTCH OATS)。現金。G. Heard and Co.,
10 Little Lonsdale-streot cast.



 鋳物業者( ironfounders)のラングランドとフルトン(Langlands and Fulton)は、メルボルンに1842年に到着した。1860年頃には、ビクトリア様式の素晴らしい鋳物装飾(cast-iron decoration)一派がメルボルンに出現した。シドニーは、まだ鉄の輸入を続けており、鋳物は輸入した鉄を鋳造しており、英国からの輸入品であったいイングランド伝統様式(English Regency characteristics)の模造品を新たに製造していた。透かし彫り(openwork)装飾用の柱、ギリシャリバイバル様式、錬鉄(wrought iron)のなごりなどである。構造用鋳物は、シドニーよりも保護主義の影響が強いメルボルンの方が普及したが、原料や材料はほとんど共に輸入していたので、違いは限定的であった。


 メルボルンにて鉄の使用量が最大に達して、鋼鉄の使用が始まったのは、1880年代の建築ブーム期である。同時に高速で信頼できる人員用エレベーターの使用が始まった。米国のオースチン(Otis of Americ)と英国のウェイグッド(Waygood of Britain.)であった。網目状の水圧システム(reticulated hydraulic power system,)が1889年に確率されたが、世界で最も早いもののひとつであtt。
錬鉄とは、鋼鉄の大量生産手段の発明以前に、古典的な製鉄方法であるパドル法で最終生産物とされていた、炭素の含有量が少ない鉄のことである。 ある程度の量産ができ、鋳鉄に比べ強靭だったので、19世紀を中心に鉄道レールや建造物の構造材料として利用された。



 鋼鉄(Steel)は、1888年以降に導入された。最初にスチールを完全に使用した構造体(frames )は、マイヤーデパート(Myer Emporium)であった。設計は、トンプキンス兄弟(H.W. & F.B. Tompkins)
. The first complete frames were those of theで1913年のことである。電気アーク溶接(electric arc welding)でボルト(bolted)やリベット(riveted)で固定された。この工法は、従来の建築方法に代わってこの頃に導入された新しいエンジニアリングであった。



 1800年にイギリスのデイビーがアークを発見した。しかし、当初アークはアーク燈の開発に興味の中心があり、溶解・溶接への応用についてはほとんど関心を持たれなかった。それに大電力を必要とするアークを長時間持続させるにはそれだけの電力容量を持つ電池・電源の開発が必要であった。有名なファラディによる電磁誘導の発見が1831年であり、その30年後には発電機(ダイナモ)が開発された。
1880年ごろ、フランスのドメリスタンが蓄電池の鉛板の接合に炭素アーク熱を利用した。そしてその弟子ドベナールはいろいろと工夫と改善を加え実用的アーク溶接法を開発し特許を取得した。
その後、ロシアとアメリカでそれぞれ別々に金属電極と金属板との間に発生させたアークで金属板を溶融溶接する被覆アーク溶接のもとになる、いわゆる「金属アーク溶接法」が開発され、以来溶接技術は急速に工業的に利用されることになった。

 

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