シティ案内

ウィリアムズ通り

コリンズ通りD

ウィリアムズ通りとコリンズ通りの交差点

メルボルン百景トップ



2007年2月23日(金) (今日の一枚へ戻る
ウィリアムズ通り(Williams Street)とコリンズ通り(Collins Street)の交差点
Melway 1A−E8
メルボルン Melbourne

メルボルンの西南部に位置するビジネス街です。銀行、保険会社などが集まっています。手前の通りがウィリアムズです。
左側の通りがコリンズ通り。

コリンズ通りトップ

メルボルンアドバタイザー The Melbourne Advertiser メルボルンの最初の新聞、印刷事務所
1838年1月1日メルボルンの設立者のひとりである探検家ジョンフォークナーJohn Pacoe Fawknerがこの場所でメルボルン最初の印刷物であるメルボルンアドバタイザーを発行しました。ジョンフォークナーは、ジョンバットマン(John Batman)と並んでメルボルンを設立した大立者です。ジョンフォークナーは、1792年にロンドンで生まれ、囚人の父(窃盗により14年の刑)や母、妹と共にバス海峡に流刑になりました。コリンズ大佐のソレント郊外への殖民団のメンバーです。その後、コリンズ大佐と共にタスマニアのホバート(Hobart)へ渡りました。ロンセストン(Launceston)でパン屋、材木商、本屋、ホテルを経営した後、新聞も発行しています。

 交差点から北側。手前側がコリンズ通り。この場所がコリンズ通りの西側では、一番、高い場所にあり、西、東ともに下りになります。

ジョンフォークナーは、1835年4月に豪州本土の未開拓地であったフィリップ湾(Phillip Bay)に新しい植民地を探すために2本マストのスクーナー船『Enterprize』号を購入しました。同年5月には、メルボルンの最初の植民者ジョンバットマンがメルボルンの西部から北部を探索しています。同年8月にEnterprize号はGeorge Townを出発しました。8月15日、ヤラ川を遡って、このウィリアムズ通りのヤラ川河畔に停泊しました。8月30日、植民者たちは家屋、倉庫を建てるために、本格的に上陸を開始しました。その日がメルボルンの歴史が始まった日です。

トラムストップ4番 
55番トラム(West Coburg行き)

交差点から南側。ヤラ側の南側サウスバンクのアパート街が見えています。スイミングプール、テニスコート、ジムを備えた都市型のアパートがシティの周辺に増えています。
ジョンフォークナーは、メルボルンの経営に熱心でした。ウィリアムズ通りとフリンダースレーンの交差点(画像の左側2軒目のビルの辺り)にメルボルン最初のホテルを建設しました。1838年には、新聞の発行を開始しました。コバーグ(Coburg)にPascoevilleという土地を所有し、コリンウッド(Collingwood)に自宅を持っていました。

 コリンズ通りの西側。この先には、リアルトビルがあります。

ジョンフォークナーの名前は、メルボルンの地区(サバーブ Suburb)であるPascoe ValeとFawknerに名前を残しています。
好敵手ジョンバットマンが若く不遇の内に亡くなったに対して、ジョンフォークナーは、ビクトリア植民地の最初の議会議員に選ばれるなど要職を歴任して77歳まで生きています。墓は、Melbourne General Cemeteryにあります。

伝記集ジョンフォークナー

このページのトップへ

inserted by FC2 system