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カークの馬市場 Kirk's Horse Bazaar

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2013年8月1日(木)
カークの馬市場
Kirk's Horse Bazaar
ハードウェアレーン Hardware Lane
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

メルボルンが出来て間もないころ、この場所にはカークのバザールと云う名前の馬の市場ホースバザールがあった。1800年代の主要な交通手段は馬であったのでメルボルンには数多くのホースバザールがあったが、カークのホースバザールは最も有名な市場であった。その跡地が現在ではハードウェアレーンのイタリアレストラン街として賑わっている。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/80 F3.2 ISO感度 6400 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2013年1月17日22:29 板屋雅博撮影

 カークのホースバザールは、英国スコットランドのFifeshireからの移民ジョームズ・ボーウィー・カークJames Bowie Kirkに由来する。カークと北アイルランド人のJohn Harlinによってカークの馬市場は設立された。カークは有能なビジネスマンであったが、世話好きでも知られていた。ジオーストラリアン紙の記事「初期の植民者」によるとカークは旧友に囲まれている時が一番幸せであり、メルボルンの著名人の多くが友人であった。馬市場は、1840年に完成したが、それ以前にはこの一帯は悪名高い地区であった。メルボルン最初の音楽バンドは、数十人で構成され1939年のクリスマスイブにデビューした。カークの馬市場が出来る予定地すぐそばに立っていたホテルから音楽を奏でながら行進した。
バンドのリーダーは、左官のジョージ・ティケルGeorge Tickellであった。


 ティケルは、メルボルンの初期の土地の売り出しの際に、酔っぱらって悪評をかっていた。土地の売り出しは、酒が飲み放題であった。後にヘラルド紙に記載されたが、バンドマンは、カスクワインを浴びるように飲んで、街に繰り出していったと、ロンズデール通りの弁護士H.N. Carringtonは語っている。
ティケルは、陽気な仲間たちを率いてスペンサー通りへ繰り出したが、そこには囚人の一団が警備員を追い払い、道路工事の仕事から逃げ出して、ティケルの行進に加わった。更に大酒を飲みながら大騒ぎを繰り返すという有り様であった。

カークの馬市場では毎週、全ての品種の馬が数百頭単位でセリで売買された。家畜が田舎から連れてこられてセリにかけられた。中には凶暴な馬もいて、そんな馬を馴らしてみせるカウボーイも馬市場にはたくさんいて腕を競った。バザールの北の端には、暴れ馬のために競技場が作られた。蹄鉄用の鍛冶場が現在のハードウェアレーンのリトルバーグ通り側に作られた。

 1850年代から60年代のゴールドラッシュの時代はカークの馬市場にも大きな発展をもたらした。黄金の土地へどうやって到達するのかは、カークの馬市場が解決した。休養を取ったフレッシュな馬が必要であり、カークの馬市場で入手することが出来た。馬市場の開場は早朝であった。カークの馬市場は広い馬畜舎も持っていた。毎日のセリに大量の馬が供給された。午前11時までには売り切れになる状態であった。ジョームズ・ボーウィー・カークは、水割りウィスキーを中に入れた銀色のジョッキを持って演壇に立ち、その日の売上について力強く語った。ゴールドラッシュの時代にやってくる外洋船船長の悩みは、船が到着次第、船員が船から脱走して金鉱山に向かうことであった。この際にも馬市場が役に立った。船長は馬市場で馬を調達して金鉱山へ出かけ、船員を連れ戻したのであった。




 毎年8月にカークの馬市場では200頭ほどの牡馬雌馬が正装してバーク通りとクイン通りをパレードを行った。1852年にカークは引退して有名な競馬一家のWilliam C. Yuilleが跡を引き継いだ。その後、ビクトリア競馬クラブの創業者のひとりGeorge Watsonが馬市場を借り受けた。


James Bowie Kirk



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