シティ案内

今日の一枚へ

パンチレーン Punch Lane

メルボルン百景トップ

Streets & Lanes

シティ案内

リトルバークと中華街

シャークフィンイン

 アングリス社の馬小屋

2021年3月28日(日)(responsive版)
パンチレーン Punch Lane
メルボルン
この場所の地図(Googole Map)

メルボルン名前は、シドニーのNSW植民地バーク総督(Governor Bourke)によって、ヤラ川の北側の居住地として、1837年3月29日付けで英国の官報に記載された。メルボルンは、当時のウィグ党で英国首相に因んでいる。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF10.0 1/100秒 ISO感度 100 露出補正-1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2014年1月17日9:37 板屋雅博 撮影


ガリーオーウェン( Garryowen)の「初期のメルボルン」(1888年)という歴史書(Chronicles)こう書いている。
土地調整官であったロバートホドル(Robert Hoddle)の記述では、バーク総督はホドルに通りの名前を付けるように指示したとある。ラトローブ通り(La Trobe Street)は、1838年のCBDグリッドの延長である。


 幅が狭いリトル・ストリート( Little Streets)は、1839年に名付けられた。幅が狭い通りは、東西方向の通り抜けられる大通り沿って業者用の通りとするとバーク総督の指示があった。
1837年にホドルが作ったCBDグリッド配置図には、レーンやアレイ(lanes or alleys)の名前は見当たらないが、1850年頃には、CBDの大きなブロック地区には発生していた。レーンは、業者の物資輸送、工場、作業所(workshop)、倉庫の増築部分、屎尿や廃棄物の輸送などの都市機能の重要な部分を担った。

バーク通り:サー・リチャード・バーク NSW植民地総督(1831ー37年))Sir Richard Bourke
コリンズ通り:副総督(Lieutenant-Governor)デビッド・コリンズ( David Collins)1803年のソレント植民の司令官( commander:Sorrento settlement)
エリザベス通り:バーク総督の妻又はエリザベス1世女王
フリンダース通り:マシュー・フリンダース船長( Matthew Flinders)
キング通り:フィリップギドリーキング大尉、NSW植民地総督(1802年ー06年)又はウィリアム4世王
クイーン通り:アデレード王妃(Queen Adelaide)ウィリアム4世王王妃(consort)
ラッセル通り:ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell)英国国務大臣(Home Secretary )、メルボルン植民地政府の議会(House of Commons)リーダー
スペンサー通り:スペンサー興(Lord Spencer)

 スプリング通り:トーマス・スプリング・ライス(Thomas Spring-Rice) メルボルン第二代植民地政権の財務大臣(Chancellor of the Exchequer)又はバーク総督の訪問時に咲いていた花の名前
ステファン通り(Stephen Street):サー・ジェームズ・ステファン( Sir James Stephen, Colonial)植民地次官(Colonial Under-Secretary、1836年ー47年)
スワンストン通り:チャールズ・スワンストン船長(Captain Charles Swanston)ポートフィリップ・アソシエーション(Port Phillip Association)のリーダー
議会(House of Commons)のウィグ党(Whig)リーダー


  ウィリアム通り:ウィリアム4世王(King William IV,)
ロンズデール通り:ウィリアム・ロンズデール大尉(Captain William Lonsdale)メルボルン初代警察長官(Captain William Lonsdale)1836年ー40年
ラトローブ通り:総督代理(Lieutenant-Governor、1851年ー54年))チャールズ・ジョセフ・ラトローブ(Charles Joseph La Trobe)、ポートフィリップ地区総監(superintendent)

 メルボルンCBDのリトルの名が付いた通りは、
Little Flinders, Little Collins, Little Bourke, Little Lonsdale Streetsがあり、それぞれFlinders, Collins, Bourke and Lonsdale streetsの北側に平行してスプリング通りとスペンサー通りの間を東西方向に通っている。1837年3月にNSW植民地総督のサーリチャード・バーク総督(Sir Richard Bourke)によってグリッドプランは承認された。メルボルンが開発されるにつれ、政府が売却した土地は分割、再分割された。多くの建物は、リトル通りやレーンに沿って建設された。1856年には、80のレーンの名前があり、1895年には158が出来た。
112の道路(rights-of-way)、私道がメルボルンCBDに出現した。通行上の問題が増加しリトルコリンズとリトルフリンダースは、クイーン通りとスワンストン通りの間は、西向きの一方通行とした。徐々に他の部分にも適用され、リトルバーク通り、リトルロンズデールにも適用された。

 1940年の法律により市政府はリトル通りに沿った土地を購入し、歩道を2m広げた。建築物は再開発された。1986年まで45%のリトル通りは拡張されるか、拡張される準備が出来た。

フリンダースレーンがリトルフリンダースストリートに変わって使われるようになり、1848年に市当局によって正式な名前となった。リトルコリンズ通りのウィリアム通りとクイーン通りの間は、長年、チャンセリーレーン(Chancery Lane)として知られてきた。バーク通りの同じ部分は、裁判所通り(Law Courts Place)と呼ばれた。その他、郵便局通り(Post Office Place)、ゴードンプレイス、ミントプレイス、ロンズデール・プレイスなどがあったが、1964年の市当局の決定により使用されなくなった。

 都心部での通りのネームプレートの標準化の遅れと不在は、夜間に通行する人々や店舗関係者や緊急事態サービスやデリバリー会社などに不都合をもたらしている。通りの中には公式名称と地元の名前がある。1889年にはコリンズ通り近くにコリンズプレイスと呼ばれる通りなど3つの横丁があった。コリンズ通りのように通りの名前はステイタスを与えている一方で他のふたつはネガティブな印象を与える。いくつかの通りは犯罪活動、売春、殺人などで悪名高く、またビジネス上のネガティブな印象を与えたり、不動産価値の問題もあり、住民は地元政府に改名を請願している。売春地区であるとの悪いイメージの為に、ステファン通りは1880年の万国博覧会の際にエキジビション通りと改名した。




 メルボルンの創設者としてジョンバットマンを記念してヤラバンクロードは、バットマンアベニューに1913年になった。メルボルンの最も良く使われている名前は、Park, Station, Railway, Victoria, George and Albertと地元の助役(councillors)、住民、政治家の名前である。1920年代にはメルボルン都市計画委員会(Metropolitan Town Planning Commission)は、通りの名前と番号付けについて改善を要求した。15000の通りの名前がメルボルン都市圏にある。


このページのトップ

inserted by FC2 system