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アララット タウンホール Ararat Town Hall 馬と馬車3

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アララット 馬と馬車の話

Pyrenees House

Horse

2021年12月22日(水)(responsive版)
アララット タウンホール 
Ararat Town Hall
アララット Ararat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

建築:1899年
193 Barkly Street,, ARARAT VIC 3377
設計:Molloy and Smith
建築:James Irwin
時計台は建築当時のまま
1869年にアートギャラリーになった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF16.0 1/125秒 ISO感度 200 露出補正 *1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2011年2月01日16:46 板屋雅博 撮影


馬車時代の必要物は都市の歴史に刻みこれており、歴史遺産建築物に名残がある。マックスホテル(Mac's Hotel)は、金護送隊の宿舎であり、100頭の馬の厩舎となった。現存する厩舎や駅馬車停車場はビクトリア州遺産に登録されている。
Airlie in South Yarra,
Royal Terrace in Fitzroy (1858),
Canterbury Mansions (former Malone's Family Hotel, 1889) in Canterbury
Burlington Terrace, East Melbourne (1866-71);

 産業施設や商業ビルの一部に厩舎があるもの
the former Yorkshire Brewery in Collingwood (1876)
Bates Building in Coburg (1888)
輸送施設
Melbourne Omnibus Co.'s stables in North Melbourne (1873).
政府施設の一部に厩舎があるもの
Government House
Victoria Barracks on St Kilda Road.
Police Depot in Southbank (1912)


  Ola Cohn House in East Melbourne 1888年には厩舎であり、1920年代まで使用されていた。
Angliss stable in Little Bourke Street (1900)
ウィリアムアングリスの肉処理場であった。
Northern Market Wall in Parkvilleは、1850年代から1930年代まで干し草、牛、馬、豚の市場であった。
Melbourne Veterinary College in Brunswick Street, Fitzroy (1886) 石膏製馬頭の飾りが入り口に配置されている。
馬を係留する柱(Horse hitching posts)は、かつて通りの必須アイテムであったが、現在では稀である。スプリング通りにあった馬係留柱は、トレジャリーガーデンに移動されている。

 1950年代には歴史的な馬係留柱は、シティにはたくさん見られた。
装飾的な真鍮製ペアの馬係留柱は、カールトンのBouverie StreetのCarlton & United Brewery醸造所の外側にあった。木製の馬係留柱は、ブライトンのマリーンホテル(Marine Hotel at Brighton)にあった。このホテルは、詩人のアダム・リンゼイ・ゴードンが使用して、1869年から70年にかけて滞在した際には、ゴードンの馬を係留した。
1880年代には20,000頭がシティにいた模様である。ビクトリア全体では、1851年21000頭、1861年77000頭、1871年167,000頭、1881年276,000頭、1891年436,000頭と着実に増えている。不況や干ばつの年には減少したが、1921年には488,000頭と最大を記録した。1941年318,000頭、1951年186,000頭、1961年64,000頭と急激に減少した。

1880年代初頭、メルボルン馬パワーシステムは経済条件や馬の飼料を市内へ輸送面で大きな問題を抱えていた。オーストラリアン紙のグレアム・デビソン(Graeme Davison)は、1987年に労働用の馬は、年間5トンの飼料を消費すると計算を掲載した。メルボルンシティの成長に伴い、周辺地は拡大し大麦と干し草の耕作に貢献した。輸送コストの増大に比例して飼料の価格も上昇した。1870年代後半にメルボルン客輸送会社は、人件費よりも飼料費を多く負担していた。


 1920年代には、馬の時代は終わりを告げた。馬は、交通渋滞の原因を非難された。市民の健康と清潔さに脅威とみなされた。1919年にメトロポリタン消防団は自動車化された。多くの組織や会社は、輸送を自動車に切り替えた。1928年にメルボルン市長は、ロイヤル自動車クラブ(Royal Automobile Club RACV)の開設の際、MCCが馬引き馬車の使用を限定すると名言した。同年、郵便と電信は馬の使用を停止した。1930年にはクインビクトリアマーケットの小売部門に馬が入ることを禁止された。馬引き荷車は別の場所に停車された。1930年代には、厩舎の広さは、自動車駐車場の8倍の広さがあった。


 戦時下の石油配給は、作業用の馬は短期的に復活した。近郊の商人は、自動車を使用しているが、二輪馬車(jinkers)を納屋から取り出してきた。1947年には、馬引きの馬車は、メルボルン都市運輸の1.5%であった。1952年に大手馬引き馬車会社A. Kellet Pty Ltdは、保有する250匹の馬を売却し、リッチモンドの厩舎を倉庫に転換した。翌年の馬の数は500頭まで減少していた。わずかに牛乳、パン、肉屋の運搬や役所用、印刷業者の荷馬車に使用されていた。駅やプリンセス橋桟橋で、港湾労働者はまだ荷車を引っ張る為に使用されていた6匹の重量馬を使用するのを拒絶した。直ぐにフォークリフトや小型トレーラーや移動式クレーンが取って代わった。


メルボルン・クリケットグランドの最後の作業用馬は1958年に引退した。騎乗した警官などの馬などが残った。弔いの鐘は、蹄鉄工(farrier)、馬具製造人( saddler) 、鍛冶屋(blacksmith)も同じだった。馬は知性が高く牛乳配達員が牛乳を配布する間、立ち止まったりスタートしても馬は付いていった。牛乳配達は、かつて必要不可欠な存在であった馬の最後の休息所であった。都市牛乳業の牛乳配達は1980年代に始まった。

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