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アララット Ararat ブル&マウスホテル(Bull & Mouth Hotel)

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アララットの歴史

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馬、馬車

2021年12月12日(日)(responsive版)
ブル&マウスホテル(Bull & Mouth Hotel)
アララット Ararat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

通りの角の店舗の後ろにある、このブルーストーン製の建物は、かつてはブル&マウスホテル(Bull & Mouth Hotel)であった。1863年から66年に厩舎として建築された。24の馬用個室、放し飼い馬屋(loose box)、馬体を洗うエリアがあった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF14 1/125秒 ISO感度 100 露出補正 -1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2011年2月01日17:00 板屋雅博 撮影


1866年8月21日のアララットプレザントクリークアドバタイザー紙(The Ararat & Pleasant Creek Advertiser)は、オーストラリアで最も美しいと厩舎をたたえた。1867年に火災で焼失しtが、壁は残り、その後に再建された。コブ馬車便会社(Cobb & Co.)の駅馬車は、この厩舎を停車駅(staging post)として利用した。列車や自動車の出現によって馬の利用が減った後は、この建物は羊毛倉庫や作業所として利用された。馬の能力の限界によりメルボルンの都市としての成長にも限界があった。かつて馬は普遍的なものであり輸送の王様であったが、現在では昔のこととなった。馬に引かれた馬車はメルボルン中央部の大通りを闊歩し、結婚式のパーティの真ん中にいた。


 ビール醸造所の荷馬車を引く馬力が強いクライズデール馬種は現在ではノスタルジーの存在である。メルボルンの最も有名な競走馬はファーラップ(Phar Lap)は、現在メルボルン博物館で展示されている。1800年代のメルボルンには馬に対する一種の宗教があった。メルボルンの最初の馬は、1835年にタスマニアからやってきた。その後は、シドニーから陸路で運ばれた。雄牛と同様に都市地区で広がった。馬は都市部の移動の足となった。産業、農業、移動のパワーとなり、経済が加速した。1880年代、リチャード・ツウォペニー(Richard Twopeny)の本オーストラリアの都市生活(Town life in Australia (1883))によると馬丁は、メルボルン都市部のどこでも出会うことが出来た。当時の馬はサラブレッド種ではなく、作業労働用や農耕用の無骨な種類であった。 メルボルンの気候や作業環境も独特の馬種が必要とされた。

 メルボルン植民の初期のころから輸入馬、地元で交配した馬などの交配の重要な地点であった。重荷馬車の牽引用馬、配達用のハーネス馬、駅馬車牽引馬、乗馬用のサドルを付ける馬など各種の馬が交配によって作り出された。種馬交配設備は、1840年代初期から募集された。1870年代には馬の輸出が盛んになり、ポートメルボルンは、豪州最大の輸出港となり、インド、アジア諸国、NZなどへ輸出がされた。

バーク通りにあったカークの馬と馬車市場(Kirk's Horse and Carriage Bazaar)は、1840年に事業を開始した。1850年代には、バーク通り西側は、馬市場と販売場で有名となった。馬具取り扱い商、干し草置き場、穀物倉庫、蹄鉄職場、サドル馬具屋、成れていない馬用の囲い場(bull ring for unbroken horses)などが集積した地域で、メルボルンの活き活きとした忙しい都市を醸し出した。

 1857年のメルボルン・パンチ新聞には野生のワイルドスポーツ西側地区とパロディーにされた。 バーク通りには他にもいくつかの名所があり、ヘンリーホイット()Henry Hoyt)のニューヨーク厩舎、ロイヤルホースバザール(Royal Horse Bazaar)などがあった。タッターサル(Tattersall)の馬市場は、1853年に建てられたが、ロイヤルメルボルン病院のロンズデール通りの反対側にあったが、 S.T. Gillがその年に描いたリトグラフに描かれている。

馬の販売と、その際に行われる装飾を施した雌馬(mares)や種馬(stallions)がバーク通りやクイーン通りをパレードしたが、メルボルンの公式カレンダーに赤色を付けて強調されていた。新聞を何度も賑わして木版画に描かれた。


ロイヤル農業ショー(Royal Agricultural Show)の翌週月曜日に行われるカーク馬市場の年度販売会は、商人、医者、専門家、競馬信奉者、キツネ狩り愛好者など多くの馬購入希望者を集めた。アイルランド人などのように田舎の出身者で馬の扱いになれた者が馬商人、競走馬オーナー、騎手、馬の世話係、運搬者などになっている。
1870年代までは馬引きの乗合バスが公共交通機関の中心であった。自転車が普及し始め、次いで20世紀初頭に普及し始めると個人の輸送手段としての馬の活躍は次第に減っていった。



 タクシー用途であったハンサムキャブ(hansom cab)がメルボルンの中心部や少し郊外を闊歩していた。Cobb & Co.などの地方都市間を結ぶ駅馬車
フランス起源のキャブリオレに改良を加えたもの。使用される馬車の一種である。1834年に英国レスターシャー州ヒンクレーの建築家だったジョゼフ・ハンサムが製作し特許をとった。メルボルン市内や郊外では数多くの種類の個人用馬車が行きかった。二輪馬車には、軽量のドッグカート(スポーツ用二輪車)、ギグ馬車(gigs)、一人乗りレース用馬車サルキー(sulky)や、より力強い大型荷馬車(drays)、荷車(carts)、屋根付きの二輪馬車(jingle)などがあった。


四輪馬車には、一頭立て軽馬車(buggy)、向かい合わせの座席を持ったバネ付きの小型馬車(wagonette)、一頭立てのブルーアム(broughams:1838年にロンドンのコーチビルダーであるロビンソン&クックによって開発され、政治家のブロアム卿に因む)、4輪馬車タクシーグローラー(growlers)、オープンタイプの二頭立てフェートン式四輪車(phaetons、中型ボックス式ワゴン馬車( box wagons)、大型ワゴン車などである。馬車備品用品は、英国と続いて米国から輸入された。メルボルンでもメーカーが出現して繁盛した。




 1849年の馬車製造業者は、Heales & Carter (Richard Healesは、1860年、61年のビクトリア首相)、Liddy & Passfield、James Rolleston、Dan White & Coなどがある。馬車業者は、1900年代には自動車メーカーとなった。

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