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アララット 町の風景 Ararat Town 馬と馬車の話2

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アララット

馬と馬車の話

Pyrenees House

Horse

馬車と馬

2021年12月19日(日)(responsive版)
町の風景
アララット Ararat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

メルボルンでは、各種の馬車が見られたが、世代や流や技術の変化によった。社会階級も馬の品質や数など、馬車の品質などに暗黙に影響した。富裕層は、おつきの者を従えた高級馬車を使用した。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF10.0 1/125秒 ISO感度 100 露出補正+2/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2011年2月01日16:45 板屋雅博 撮影


馬車の取引は、社会的な差別を意味した。1880年代には、メルボルン人口の10%程度の富裕層が個人用馬車を所有することが出来た。社会的エチケットが民衆の行動を規範した。1880年代、馬車タクシーに乗る際には、女性は通路側の座席に座るように御者に云われた。
実際には、特にメルボルンの初期の数十年は、多くの市民は毎日の仕事に行く際には徒歩で行った。
かいば、厩舎、馬具一式などやの支出がかかる為に、商人、プロフェッショナル、富裕層などだけが、自分の馬を持っていた。


 多くの移民がビクトリア植民地中央部の金鉱山へは徒歩で向かった。都市交通の安寧さコスト、安全さは、都市道路ネットワークの状況や位置によって決定される。曲がりくねった馬用道路は、通行には困難な地域があり、土地当局や分割業者によって後にまっすぐにされた。メルボルンの貧弱な道路状況では雨が降った場合には道路は危険に満ちていた。伝聞では1850年代にバーク通りとエリザベス通りの交差点で1頭の馬が溺れ死んだと伝えられている。一連の馬(車・すきなどを引く 2 頭以上の)が急な坂で荷物を乗せた大型馬車が苦労していた。1880年代には水が流れた道路は滑りやすくて危険であった。

  交通混雑も問題であった。1884年のリンダースレーンでは馬ていが休みを取ったり食事をしたりで馬を離れたので、後続の馬車が渋滞となった。地方から販売に出された家畜は1857年にメルボルン市当局の37号政令(By-Law No. 37)によって規制された。移動する牛や慣れてない馬が主要道路を移動する時間を深夜から朝6時に規制した。市内を通行する家畜は市が規定した道路に限られた。メルボルン警察法でも初期の時代は、興奮した馬を移動させることは禁止された。セントキルダ通りも競争も1850年代には禁止された。


ホテルシアホール Hotel Shire Hall

 ウィリアム・ホイット(William Howitt )の著書、「土地と労働者と金」(Land, labour and gold 1858年、ロンドン)では、道路の中央部では人々はギャロップか駆け足で走っており、オーストラリアの駆け足(Australian lope)と呼んだ。スピードを上げた荷馬車が歩行者と衝突する事故g増えた為に、1865年の政令56号は、荷車が交差点を通過する際には、歩く速度に落とすように定められたが、実際には事故は続いた。スワンストン通りとフリンダース通りのような大きな交差点はゆっくり歩く交差点(Walk Over Crossings)に指定された。道路左側をキープする英国の伝統は、18世紀中ごろから法制化されたが、1888年にメルボルンでも法律となった。荷馬車は、追い越しや衝突を避ける場合を除いてキープレフトが決められた。


馬車の早い速度、臭み、騒音など馬車の時代の記憶はいつしかメルボルンから消えていった。
1830年代から馬の糞から作る肥料は、常に存在してきし、都会の至る所にある(ubiquitous)都市の匂いであった。若い労働者のチームが作られ、ショベル少年隊と呼ばれて、馬糞を片づける為に雇用された。1880年代には、秩序だって規格化された
ゴミ箱の設置が始まり、メルボルンは清潔さは改善された。多量の枯れ草や落穂は、堆肥置き場に送られた。

George Hotel

 馬のかいばが道路にまかれて店舗にまで入り込む被害が多発して、1910年代には道路でかいばをやる行為はノーズバックを使用する以外は、法律で禁止された。都市部のホテルや荷馬車置き場には、水槽が置かれて、馬用に使われた。MCGにはレッドガムの木で作られた馬用水桶が標準装備されていた。1890年代には民間でも多種で多色の水桶が設置された。黄色が多かった。バーク通り、キング通り、フリンダース通り、スペンサー通りのホテルの外側などに置かれた。1890年頃には、荒廃して妨害物となった水桶を取り除く指示が度々出された。水槽設置は、ビクトリア動物愛護協会(Victorian Society for the Prevention of Cruelty to Animals (VSPCA),に推奨された。VSPCAは、1871年に働きすぎで、ひどい扱いを受けている馬の保護の為に作られた。

Mechanic Institute

 1908年に馬インフルエンザが発生して水槽は空いされた。1926年に紫十字協会(Purple Cross Society)がセントキルダ通りに記念馬用水桶を、アッシュバートンに馬用隠居ホームを設置した。1927年までに47箇所の馬用水桶をメルボルンの郊外などに設置した。かいばと防水布を馬車御者に配布した。VSPCAの活動家であったGeorge Billsの没後にビルズの所有地が馬用水の設置用の資金として提供され、1935年までに300箇所の水槽が設置された。

Google Map

馬車時代の必要物は都市の歴史に刻みこれており、歴史遺産建築物に名残がある。マックスホテル(Mac's Hotel)は、金護送隊の宿舎であり、100頭の馬の厩舎となった。現存する厩舎や駅馬車停車場はビクトリア州遺産に登録されている。
Airlie in South Yarra,
Royal Terrace in Fitzroy (1858),
Canterbury Mansions (former Malone's Family Hotel, 1889) in Canterbury
Burlington Terrace, East Melbourne (1866-71);

McGibbony building google map

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