2012年10月13日(土)
バララット刑務所 Gaol Ballarat
リディアード通り南 Lydiard Street South
バララット Ballarat
ビクトリア Victoria
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バララットの歴史観光地区であるリディアード通り南(Lydiard Street South)の突き当たりにバララット刑務所がある。正門、刑務官居住棟、刑務所長居館が残っている。大部分の場所は、現在では、バララット大学鉱山学部が使っている。
撮影データ Canon EOS 5D シャッター速度優先AE 評価測光 絞り 10.0 1/125秒
ISO感度100 露出補正 -1 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博
撮影2011年2月1日
ナショナルトラスト(B1971)
バララット旧刑務所は、ビクトリア州の最もセキュリティーが高い刑務所のひとつであり、男性、女性及び子供の囚人を収容し、1862年から1865年の間に開設された。ビクトリア植民地の初期の時代、メルボルン湾では囚人船が刑務所として使われていたが、恒久施設として建設された。18世紀から19世紀、、政治や経済が混乱していた英国では多数の囚人船が作られていた。アメリカや豪州に植民して多くの囚人を送り込んだ。
英国では、40船以上の囚人船があり、英国系の植民地でも囚人船が使われていた。
ビクトリア植民地では、1851年にゴールドラッシュが始まり、世界中から男性が単身でビクトリアを目指してやってきた為に急速に治安が悪化していた。
1857年9月ににメルボルンの囚人懲罰特別委員会(Select Committee on
Prison Discipline )は、メルボルン湾に浮かんでいた囚人船の廃止と刑務所建設を提言した。英国イングランドのペントンビル刑務所(Pentonville
Prison)をモデルとした当時の最先端の刑務所設計であった。
ペントンビル刑務所は、1842年に出来た最新設備を持つ刑務所で、アメリカフィラデルフィアの東部州立刑務所(1829年建設)で開発された画期的な分離システム(Separate
System)というコンセプトを持っている。中央部にホールがあり、そこから放射状に独房が配置される設計。中央部のホールに刑務官を配置することにより、放射状の独房が一目で見渡せる利点がある。主要施設のデザインは、英国監獄総監のJoshua
Jebb。。設計は、ビクトリア植民地公共建設局。
当時の最先端のシステムは、メルボルン監獄やタスマニアのポートアーサー刑務所も同じシステムを採用している。
メルボルン監獄(メルボルン百景)
ポートアーサー監獄(メルボルン百景)
バララット刑務所は、ゴールドラッシュにより人口が急増した1856年に建設が始まった。最初の刑務所監房が出来たのは1857年。1862年に完成したが、58の監房を持ち、最大74名の男女の囚人を収容できた。1862年には、隣のバララット裁判所から地下トンネルが建設され、裁判後に受刑者が安全に」移動できるようになった。
1872年には、元アングリカン教会の牧師で、後にブッシュレンジャー(無法者)となった悪名高いキャプテン・ムーンライトがバララット刑務所から脱走している。
バララット刑務所は、1965年に閉鎖されている。
公開絞首刑によって処刑された囚人
Alexander Davis 1 March 1864 殺人犯
James Jones 19 March 1866 殺人犯
Denis Murphy 16 April 1867殺人犯
George Searle 7 August 1867殺人犯
Joseph Ballam, John Wilson 11 May 1891 ひとりの人物を殺害
James Johnston 18 May 1891家族殺人
Oscar Wallace 11 August 1873
James Ashe 21 August 1875
Charles Baker 3 September 1885 殺人犯 警官殺害未遂
Cornelius Bourke 21 November 1891ハミルトン刑務所で仲間の囚人を殺害
Elijah Cockroft 12 November 1894妻殺害
Charles Deutschmann 28 June 1908妻殺害
Walking Ballarat's Heritage
バララット刑務所 Gaol Ballarat
リディアード通り南 Lydiard Street South
建築年:1857年ー1862年
建築時期:ビクトリアン
建築様式:クラシカルリバイバル
建築:ビクトリア植民地公共建設局
目的:刑務所
ガス灯 装飾ガス灯は、バララットの街中の交差点にはたくさん建てられた。ゴールドラッシュで資金が潤沢にあったことをものがたる。
バララット歴史協会
バークとウィルスの記念碑と泉
リディアード通りとスタート通りの交差点
バークとウィルスの悲劇のオーストラリア縦断探検隊事件は、1861年に起こった。バークとウィルスの悲劇の探検旅行
ウィルスがバララットの住民であったことから悲劇の探検隊を顕彰しようと1863年に建てられたもの。ウィルスの父親は、バララットで医者であった。この顕彰碑の建設を巡ってバララットの地区でもめごとが起こった。結局1867年に完成して、1868年にはガス灯が灯っている。1994年に整備された。
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