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ナショナル相互保険会社ビルディング National Mutual Insurance Company

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バララット

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Ballaratrevealed

アランブラザース宝石店

Alamy

Lydiard Street

Allan Bros Jewellers

 J.J.Clark

2021年2月14日(日) (responsive版)
ナショナル相互保険会社ビルディング
National Mutual Insurance Company
バララット Ballarat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

ナショナル相互保険会社ビルディングは、リディアード通りのクレイグホテル、スチュアート通りのタウンホールと両側に備えてバララットの象徴的建物のひとつである。メルボルンの名建築家JJクラークの作品である。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF8.0 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 -1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2011年2月01日12:23 板屋雅博 撮影


ナショナル相互保険会社ビルディング
住所:リディアード通りとスチュアート通りの交差点
Lydiard Street and Sturt Street corner
建築年:1905年
建築様式:ベネチアン・ゴシック建築
Venetian Gothic
建築家:JJクラーク、EJクラーク親子
J.J. and E.J. Clarke
John James Clark wikipedia (23 January 1838 - 25 June 1915)
息子:Edward James Clark

屋上の五角形の小塔(turret)は当初はドームであったが、追加建築された。

 現在、1階には、アランブラザース宝石店(Allan Bros Jewellers)が入居している。アランブラザース宝石店は、1937年に操業しバララットや周辺で宝石を販売している。ビル・アランは、1968年から家業の宝石店を継いで現在まで営業を継続している。


 公表された( publicised)最初の金塊の発見は、1851年8月2日、バニヨン( Buninyong)の南で、トーマス・ヒスコック(Thomas Hiscock)によるものであった。多くの採鉱者が殺到し、8月19日にポバティー・ポイント(Poverty Point.)でも発見された。数日の内にゴールドラッシュが始まり、数千人の採鉱者がその後、バララット鉱山として知られるヤロウィーバレー(Yarrowee Valley)に集まった。産出量特に高く最初の採鉱者たちは、ひとり平均で15グラムを獲得した。これは当時の平均賃金を上回った。最大で一日150グラムを採掘した例もあった。ビクトリアのゴールドラッシュのニュースは世界に喧伝され、バララットは特に金が豊富であると国際的に有名になった。アイルランドや中国から移民が押し寄せ、人口は1000名を超えた。

 最初のバララット郵便局は、金鉱山地区の最初の郵便局として1851年11月1日にオープンした。最初の土地調査が1851年10月に行われ、地区の一部は、土地調査官のWilliam Urquhartによって土地確定された。西バララットの新しい町の土地の売却があり、区割りや通りが決定された。玄武岩の平地の上に東バララットの建設も始まった。主な通りの名前は当時の警察トップや行政トップの名前が付けられた。スチュアート通りは、Evelyn Pitfield Shirley Sturt、ダナ通りは、Henry Dana、デボントン通りは、Francis Crossman Doveton、メアー通りは、William Maiに由来している。



 最初の新聞、ザ・バナー(The Banner)が1853年9月11日に発行された。新聞は入植初期の社会で重要な役割を占めた。バララットは、1848年のカリフォルニアゴールドラッシュの金鉱夫の多くを集め、バラフォルニアンズ(Ballafornians)と呼ばれた。1854年のユーレカの反乱(Eureka Rebellion.)の際は、ビクトリア植民地軍(Troopers)が反乱軍の拠点(rebels' stockade)を襲った。1854年12月3日、バララットで起きたユーレカの反乱(Eureka Stockade)として知られる市民の蜂起(civil uprising)が起こった。22名の金鉱夫が政府軍によって殺害されたが、豪州の歴史に残る事件となった。



 1850年代、バララットは、ゴールデンシティの名前を獲得した。ゴールドラッシュのピーク時の人口は1858年に6万人に達し、多くは男性の金鉱夫ディガーであったが、多くの金鉱夫はあちこちの鉱山を転々としていた。1852年のマウント・アレキサンダー(Mount Alexande)、1855年のフィエリー・クリーク(Fiery Creek)、1857年にアララット(Ararat)にゴールドラッシュは移っていった。1859年にバララットはの人口は23000名で落ち着いた。多くはゴールドラッシュにより個人資産を作り、地下深い場所の金採掘を企業が開始した。

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