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 バララット

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バララットタウンホール Ballarat Town Hall

2021年2月23日(火)(従来版)
バララットタウンホール 
Ballarat Town Hall
バララット Ballarat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

スチュアート通りとアームストロング通り(Armstrong street)の交差点は、バララットが町(borough)と公式に認定された最初の頃に、タウンホールの適地として予定された。1859年に最初の臨時市役所建物(temporary council chambers)が火事で焼けたが、新しい本格的で印象的な建物が計画された。

撮影データ Canon EOS 5DMarkⅡ シャッター速度AE 評価測光 絞りF8.0 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 -1/3 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2011年2月01日12:23 板屋雅博 撮影


75ポンドの賞金で建築コンペが行われた。市役所設計案は、裁判所( police court)、治安判事事務所(magistrates office)、ふたつの拘留室、公共図書館、ミューゼアム、委員会室、防火室、証人待機室、議会係員用宿泊施設で構成されていた。地元在住の建築家チャールズ・カッシュバート(Charles D. Cuthber)が受賞し、1860年8月16日に礎石が置かれ、多くの市民が集まった。バララットのシンボルとなることが期待された。建築家の壮大な設計であったが、結局建築されたのは、裁判所だけであった。1861年にオープンした後、その他の部分は保留されたが、カッシュバートの設計は高すぎた。


財政難の後、タウンホール建物のあるべき内容について、議論が重ね、1869年まで動きはなかった。既存の裁判所を含み、新たな建築コンペが行われた。13名の建築家から設計案が出され、地元の建築家ヘンリー・カセリ(Henry R. Caselli)が受賞した。しかし委員会は内部の設計はカセリを使い、外部は第3位であったロレンツ(J.T. Lorenz)を使用した。市助役(councillors)は、2位であった建築家パーシー・オークデン(Percy Oakden)をバララット市の公式建築家として指名した。1870年1月に新しい礎石が置かれ、丸2年後にタウンホールは完成した。

バララットのは、絵にかいたような町で装飾が多い建物や広い大通り、美しく整った町並み、豊かなゴールドラッシュ、アボリジニ文化などで知られる。1851年のゴールドラッシュで町は完全に変わった。より良い生活と未来を確保する為に、世界中が金を求める人が集まった。1851年から1870年までの間にバララットで1千万オンス(10 million ounces:31グラム)の金がバララットで採掘された。31x10,000,000グラム=31000トン
ゴールドラッシュの初期には、緊張と混乱が起こった。許認可の関係で、金鉱夫は不公平と感じたため、金鉱夫と軍隊の間で衝突があった。1854年12月3日のユーレカ砦(Eureka Stockade)の反乱につながった。金鉱夫は、ユーレカの戦いで負けたが、歴史家は豪州の民主主義の原点と称した。金鉱夫は後に投票権を獲得した。

ユーレカ反乱による混乱が落ち着いた頃、バララット市は、形を整えてきた。一時的な建物の代わりに恒久的な建物が建ち始め、病院、救護院(benevolent asylum)や技術学校、教会、小学校が設立された。1855年にバララット町(Ballarat borough)が宣言され、タウンホールの土地も確保された。一時的な木製のホールと市議会室、二部屋ある係員の小屋(messenger’s cottage)が建てられたが、1859年に工作室から火が出て焼け落ちた。

タウンホールの3階部分に市役所としては世界で3つしかない独自の音色をしているアルフレッドベル(Alfred Bells.)バララット市の歴史的な収集物が収蔵されている。ベルタワーは2階建てでタウンホールビルの屋上に建てられおり、バララット市では最も高いビルのひとつである。歴史家ウェストン・ベイツは、アルフレッドベルは1867年にバララット市を訪問したアルフレッド皇太子(Prince Alfred)を記念したものであると述べている。

Ballarat Town Hall West, 1861

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