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バララット 金鉱山の都市

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2021年5月9日(日)(responsive版)
バララット 金鉱山の都市
マーベラス・メルボルン21年7月号No54
バララット Ballarat
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)
バララット 金鉱山の都市(1166字)バララットは、メルボルンから北へ105kmの地点にあり人口10万人でビクトリア州内では、メルボルン (400万人)、ジーロン(18万人)に続いて第三の都市。
ゴールズフィールドの一角に位置しており、1851年のゴールドラッシュにより人口が爆発的に増大した。
撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2011年2月01日13:16 板屋雅博 撮影

VHD

最初のヨーロッパ人の定住は、1837年に港町ジーロンからスコットランド人の数家族が羊を引き連れて、放牧地を求めてやってきた。スコットランド人の家族は、この場所を原住民アボリジニの言葉からバララットと名付けた。正式な名称となったのは、市当局によって1996年のことである。人口数百人の町の静かな牛と羊の牧草地の田舎町であった。


 1851年8月2日、最初の金塊の発見がバララットから11km南部のバニヨンで報告され、数日後には、ポバティ・ポイントでも金塊が発見された。わずか数日で、数千名の金鉱夫が地域に押し寄せて、バララットは金の町としてオーストラリア中に知られた。金発見効率はかなり高く、最大で一人が150グラムと一般の労働者賃金の10倍近い収入であり、金鉱夫たちは大いに潤った。

 電信もない時代であったが、ビクトリアのゴールドラッシュのュースは世界に流れて、バララットが金鉱山の町として有名になった。アイルランドや中国から多くの移民がバララットに集まり、クリークや丘にテント村が作られた。1851年は、ビクトリア植民地がNSWから独立した年で、多くの仕事が必要であったが、労働者に限らず、多くの成年男性が金鉱山地区へ行った為に、メルボルンの建設が遅れるという現象も起きている。金鉱山に集まった外国人の中には、ロンドンや米カリフォルニアから流れて来た民主活動家も混じっていた。ビクトリアのゴールドラッシュで数千人の人口であったバララットは、数か月で2万人に膨れ上がり、最盛期には6万人の単身男性の金鉱夫が至るところを掘りまくった。

  バララットは、ゴールデン・シティと呼ばれた。
1853年には、金鉱山法(Goldfields Act)が成立している。1854年12月3日にオーストラリア駐在英国陸軍と金鉱山鉱夫との間で、衝突が起こり、オーストラリアの歴史上、最大の事件として知られるユーレカの反乱が起こった。この反乱を機に作られた王立調査委員会は、1854年に金鉱とその問題点を調査することになった。その報告は金鉱夫に寛大であり、政府の政策を批判するものであった。

ユーリカの反乱の後、ビクトリア植民地政府は画期的な判断を下した。金採掘ライセンスが廃止され、鉱夫の権利法が制定されて安価な採掘費制度、鉱夫の投票権、土地所有権などが認められた。金鉱夫たちは、他の金鉱山の町へ移動し、1859年には、人口は23000名に減り、多くのバララット市民は、金で資金を貯めて、企業は深い深度の地下金採掘を開始した。
1862年にジーロン経由でメルボルンへの鉄道が敷設され、ビクトリアの主要都市として確立された。1860年代、金鉱山の町から近代的な産業都市へと性格を変えていった。


 1867年12月から13日にかけてに英国ビクトリア女王の次男エジンバラ公アルフレッド皇子が、バララットを訪問した。最初の英国王室家族として最初の豪州訪問であり、アデレード、メルボルン、ブリスベン、シドニーを訪問した。皇子の宿泊先は、クレイグホテルであった。バララット市民であった Henry James O'Farrellによるアルフレッド皇子の暗殺未遂事件は市民に大きなショックをもたらした。アルフレッド皇子が、シドニーの海岸を歩いていた時に、オファーレルに拳銃で打たれた。皇子は、2週間、入院したが、フローレンス・ナイチンゲールに訓練され、その年の2月に帰国した6名の看護婦によって看護された。

 
1870年にバララット鉱山学校(School of Mines)は、同種の専門学校としては、最古の教育機関であり、初代学長には、メルボルン大学学長であり、州立図書館館長、最高裁長官であったレイモンドバリーが就任している。鉱山学校は、後にバララット大学となったが、オーストラリアの鉱山開発の中心人物を多数輩出した。


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