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キャッスルメイン  Castlemaine コブ社 駅馬車 Cobb & Co

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キャッスルメイン

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Cobb & Co

Concord stagecoache

馬車

2022年7月3日(日)(responsive版)
キャッスルメイン
Castlemaine
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

メルボルンやビクトリア、更には全豪州で大成功を収めた駅馬車の時代があった。駅馬車といえばアメリカ西部開拓が有名だが、まさしくアメリカからの移民によって始められた事業であった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF14.0 1/100秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2011年2月2日15:05 板屋雅博 撮影

図書館(Library):212 Barker Street

コブ会社(Cobb & Co)は、ビクトリア・ゴールドラッシュに沸く1858年に新しくメルボルンに移住した4名のアメリカ人によってメルボルンに設立された。フリーマン・コブ(Freeman Cobb)、John Murray Peck,、James Swanton、John B. Lamber.であった。当初の名前は、アメリカ遠距離通信馬車会社(American Telegraph Line of Coaches)であり、社名はスピードと革新(progressiveness)を意味していた。資金はやはり新たに移民したアメリカ人ビジネスマンのGeorge Train,が拠出した。彼らは数台のアメリカ製ワゴン荷馬車とコンコルド型駅馬車(Concord stagecoaches.)



 1854年には、メルボルンからフォレストクリーク、ベンディゴ、続いてジーロン、バララットや他の金鉱山地区へ路線を拡大した。
コブ社のアメリカ式戦略はこうだ。
コブ社の路線の10マイルから15マイルに駅を設定して、全4匹の馬を交換して、スピードの持続に務めた。駅には木賃宿やホテルを配置して旅客の利便性を高めた。馬車のドライバーや旅客には水筒や弁当に類した飲食物も提供した。
歴史家のSusan Priestleyは、駅馬車は鉄道と競争する意図はなく、むしろ鉄道路線の拡大に合わせて、保管路線を充実させ、地方の鉄道駅から駅馬車に乗り換えて更に各地を目指す旅客を確保する戦術に出て大成功を収めた。駅馬車の時刻表は鉄道の時刻表に合わせて設計さえていた。



 全ての通信サービスを独占した訳ではないが、数年でコブ社は効率性、スピード、信頼性で大評判となった。ビクトリアの金鉱山地区はもちろん舗装もなく荒れた道路で、従来の鉄製ストラップを使用した馬車ではかなりの疲れがあったが、コブ社はアメリカで開発された最新の密接かすがい(thorough-brace)技術を使った肉厚革製ストラップで馬車全体をサポートするアメリカ製最新馬車を輸入して、長距離馬車旅行を快適にした。

Castlemaine the Imperial Hotel
Lyttleton Street opposite the town hall

4名のアメリカ人は1856年にコブ社を売却した。ランバーは米国に帰国し、スワントンは数年の間は、駅馬車事業を指導したが、ジョンペックは、その後はメルボルンで株式会社を設立した。コブ社のオーナーは何人も変わっていったが、1861年以降もコブ社の事業は繁栄した。同じくゴールドラッシュ期に移民したアメリカ人James Rutherfordに率いられた投資家団によって買収あれた。Alexander William Robertson,、John Wagner,、Walter Russell Hall,、William Franklin Whitney、Walter Bradleyである。ラザフォードは、1870年頃にコブ社の事業を再編拡大し、主な郵便配達事業の独占体制を作った。同じころまでにビクトリアの駅馬車路線ルートを確立した。

Castlemaine 消防署 Fire Station

 1862年、ラザフォードは、NSWで金鉱が発見されると駅馬車をNSWへ拡大を決意した。ラザフォードは、ベンディゴから10台の駅馬車の連隊を組んで派手にコブ社の宣伝しながらNSWバスハーストへ向かった。バスハーストが新しい駅馬車会社の本部となった。ラザフォードは、バスハーストに6か月間、滞在して、同市の著名市民となった。ラザフォードは、同業の駅馬車会社を買収したり、撤退させたりでNSWで勢力を伸ばした。1865年にコブ社は、クインズランドにビジネスを広げた。最初の路線はイプスウィッチからブリスベンである。直ぐにクインズランド全域に路線は広がり、田舎の町も大都市への交通機関が整備された。1881年に5万ポンドの資本金で株式会社になった。3000頭の馬を保有し週に合計1000マイルを稼働するクインズランド最大の駅馬車会社となった。

.State Savings Bank

 駅馬車修理工場がチャールズビルに建設され120台の荷馬車を一度に修理できた。
1871年にビクトリアのコブ社(Robertson and Wagnerオーナー)とラザフォードのNSWとクインズランドのコブ社は会社としての資本関係は解消されたが、その後もゆるやかな関係は継続された。
ビクトリアでは相互協定のもとで、4社が特定のルートでコブ社の名前を使用した。その後もコブ社の名前は継続使用された。運賃は、1日あたり5ポンドで、食事と宿代金は2シリングであった。御者は距離によって週に10ポンドから14ポンドの給料で食事は無料で提供された。

.State Savings Bank

 南オーストラリアでも独立したコブ社が展開された。コブ社のメンバーであった数名は、NZでも展開した。日本でも1867年にコブ社が営業を許可され横浜〜東京間を往来し、横浜では後に馬車道という名前で呼ばれるようになった。フリーマン・コブは南アに移住してコブ社を設立して駅馬車事業をポートエリザベスとキンバリー間を往来した。

.State Savings Bank

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