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ジーロン バラライン半島

ポートアーリントンタウン

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2007年9月13日(木)
ポートアーリントンタウン Portarlington
バラライン半島 Bellarine Peninsula
ビクトリア Victoria
この場所の地図 Google Map
カフェ レストラン インダルジ
Indulge on harding
1a Harding St Portarlington 3223
Phone 5259 1999
バラライン半島から選んだベストの食材を使って作る料理はポートアーリントンではトップのお店。ローカルのチーズ、トマト、緑色野菜、オリーブ、ハーブ、フルーツ、肉、もちろん目の前の漁港で取れるムゼル(mussels)やシーフードも豊富です。湾の見晴らしも抜群です。
ポートアーリントンツーリズム
The Age
昨年の今日2006年9月13日(州議事堂)

1935年にタスマニア島(当時は、バンディーメンズランド)ジョンバットマン率いるフィリップ湾事業団(Port Phillip Association)が初めてバラライン半島のIntended Headに上陸しました。ジョンバットマンなどメンバーの多くは、メルボルンなどへ移動しましたが、メンバーの一部は、バラライン半島の土地を分割して定住を始めました。1850年には詳細な土地の調査が実施され、アイルランドの土地の名前を取ってポートアーリントンと銘々されました。1851年10月22日に土地が販売されジーロンの資産家が主に投資目的で購入しています。

 戦没者慰霊碑 (1932−1972)
第二次世界大、韓国、マレー半島、ボルネオ島サバ、サラワク、ベトナム
1857年には、粉引き工場が完成してバラライン半島は小麦などの生産が活発になります。1859年には本格的な桟橋が完成して、ジーロン、メルボルンなどから定期貨物船、旅客船が往来するようになりました。バラライン半島は、メルボルンの穀物地帯と呼ばれるようになり、小麦、たまねぎ、ジャガイモ、バター、チーズ、卵、豚肉、鶏肉、肉加工製品などメルボルンが必要とする食物を供給していました。一方でメルボルンからの輸入は、タバコ、酒類、砂糖、コーヒー、紅茶など工場で加工した生活用品です。当時は、鉄道が普及する以前で馬が動力の主体であり干草も出荷品目のひとつでした。1879年の記録では1025トンのたまねぎを、メルボルン、NSW、南豪州、NZへ出荷しています。

 The Portarlington Bakehouse
48 Newcombe Street ph: 5259 2274
炉辺焼きの店1880年の歴史があります。

港には商品の新鮮さを保つ為に、倉庫が建設され、早い時期から冷蔵施設や製氷施設も導入され、益々街は活気づいていきます。取引のためにホテルや銀行、商店も次々と建設されました。当時は、自動車、鉄道はありませんから、荷馬車、トロッコなど全て人手による作業です。桟橋には鉄製のレールが敷かれて、よりスムーズな積み下ろしを図りました。また迅速な作業が要求される為に、人力によるクレーンやデリックなども導入されました。桟橋の初期からのもうひとつの役割は漁業です。ムゼール(mussel むらさき貝)の養殖を中心として、地区の発展に寄与していきました。

 Grand Hotel
ポートアーリントンの初期の頃に建てられたふたつのホテルのひとつです。街の象徴ともいえる憩いの場です。現在はパブ。

美しいビーチやなだらかな丘陵にかこまれ風光明媚で、魚介類や農産物に恵まれたポートアーリントンやバラライン半島は、メルボルン、ジーロンなど都市に住む人々の人気の場所になりました。1880年頃から週末にはメルボルンから家族連れが観光にやってくるようになりました。外輪式の観光船がメルボルンとポートアーリントンを60年以上に渡り運行されていました。金持ちだけでなく一般の労働者でもその程度の余裕はありました。

 正面は、ポートアーリントンの桟橋

海水浴は健康によいとの信仰が英国より入ってきて1860年代からメルボルンでは盛んになりました。しかし公衆道徳の面から公の海で泳ぐことは禁止でした。そこでいくつものプライベートビーチハウスがポートアーリントンにも建設されました。
人口が100人程度であった1859年に早くも競馬場が建設されていることも人々の週末の楽しみを物語っています。多くの学校、教会、警察の建設は1870年代です。

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