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バックレーの物語

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(毎日更新酔ってなければ)
2007年9月12日(水)
バックレーの物語 Wiiliam Buckley
バラライン半島の自然とクリーク 
バラライン半島 Bellarine Peninsula
ビクトリア Victoria
この場所の地図 Google Map

今日も曇りの一日でした。場所によっては雨が降っています。気温は18度と冬の気温でした。そろそろ春もまっさかりの時期ですが、皮ジャンバーやオーバーを着込んだ人もいるメルボルンです。

昨年の今日2006年9月12日(ユーレカタワー)

逃亡者 ウィリアム バックレイ 
バックレイは、1780年に英国イングランド地方チェシアー(Cheshire)に生まれました。レンガ職人になりましたが、その後、1799年には一兵卒としてナポレオン戦争に従軍しています。ロンドンに戻った後、衣服を盗んだかどで投獄されました。彼自身は、頼まれたやったのであり、盗んだものではないと反論しています。しかしこの罪で豪州NSW植民地(ビクトリアもその一部であった)に14年の島流しの刑になります。14年とは云え、英国と豪州の距離を考えると一生帰れない刑だったのです。米国や豪州へ島流しの刑になった多くの罪人は、政治犯や殺人犯などではなく、大半がこの程度の微罪だったのです。英国の厳罰主義とそれによる社会の退廃がわかります。

 バックレーは、1803年10月英国海軍デビッドコリンズ(David Collins)中佐の船『カルカッタ』号にて、発見されたばかりのNSW植民地(現ビクトリア州)フィリップ湾のソレントに到着します。コリンズ中佐は、コリンズ通りに名前を残しています。バックレーは、1803年12月27日に他の5名の囚人と共にコリンズ大佐の元から逃亡しました。他の4名は、800kmも離れているとは知らなかったのですが、当時は道も無いシドニーへ向かって進みました。しかしバックレーは体力が無いためにひとり残りました。彼はひとり西へ向かい、現在のジーロンに到達しました。そしてアボリジニの部族に迎えられてバラライン半島でアボリジニと生活を始めました。その後、数十年が経ちバークレーは母国語を忘れ、完全にアボリジニとして生活していました。バラライン半島の南の海岸にあるポイントロンズデール(Point Lonsdale)にはバックレーが住んだ洞窟が残っています。

 1835年7月6日バンディーメンズランド(現タスマニア)の投資団フィリップ湾事業団の悪漢ジョンバットマンがレベッカ号に乗ってバラライン半島のIntended Headに上陸します。そのニュースは、直ぐにバックレーに伝えられました。アボリジニの情報網が的確かつ迅速であったことがわかります。バックレーはジョンバットマンに会い、忘れかけていた英語で自身の経験を話しました。9月にはタスマニアの総督から恩赦の特例を受けています。1836年にはバックレーはFoster Fyans船長によりアボリジニとの通訳の職を得ました。バックレーは1837年に、タスマニアのホバートに渡っています。そして1856年に75歳で亡くなっています。

 バックレーの物語は、メルボルンの年配の人では知らない人はありません。バックレーの奇跡(Buckley's Chance)と言います。18世紀後半の英国の犯罪、島送りの事情、アボリジニの人々と西欧人の出会い、ビクトリア植民地、バラライン半島の事情など多くの示唆を含んだ物語だと思います。

メルボルンから車で1時間でこの美しい自然が随所に残ったバラライン半島に到達します。写真の場所は、観光地でも公園でもない道端の光景です。

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