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ジーロンの岸壁 Wharf of Geelong

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2007年9月14日(金)
ジーロンの岸壁 Wharf of Geelong
ビクトリア Victoria
この場所の地図 Google Map

今日のメルボルンも最高気温15度と真冬の寒さに逆戻りです。

ジーロンのシティ中心部から数ブロック、歩いて10分ほどの場所にジーロンワーフ地区があります。昔は、大型船が着く岸壁でしたが現在は、観光地区になっています。

昨年の今日2006年9月14日(移民博物館)

1802年のレディネルソン号のMurray船長や同年のInvestigator号のフリンダース船長による最初の探検の後、1824年にHumeとHovellによる探検があります。彼らはメルボルンとジーロンの中間にあるDuck Pondに上陸しています。アボリジニとの交渉の際に、この場所を『Jillong』、湾を『Corio』と呼んでいる書き残しています。
少なくともこのふたつの言葉を聞き取っていることは確かです。しかしアボリジニが少なくとも2000年の間、所有してきた土地がその日から10年で彼らの所有ではなくなりました。(ジーロン市Webより) 

 古い航海搭を利用したアート。
HumeとHovellは、この場所が非常に牧場や移民に適した場所であるというレポートを作成してタスマニア(当時バンディーメンズランド)に戻っています。このレポートによりフィリップ湾の地を開発しようという機運が高まり、ジョンバットマンのポートフィリップ事業団(Port Phillip Association)につながっています。1835年のレベッカ号でジョンバットマンがやってきます。その後、その一派のメンバーによってジーロンの開発が始まります。NSW植民地のリチャードバーク総督により1837年にFoster Fyans大佐が行政官(Police Magistrate)としてジーロンに派遣されています。同様にロンズデール大佐は、1836年10月に同じ職でメルボルンに派遣されています。こうしてジーロンの行政政府は活動を開始しました。


 航海士マシューフリンダース船長のInvestigator号の複製。立派にセーリングも出来ます。

ジーロンの歴史的な産業と言えば羊毛ウールです。最初のウールの店は1836年に建設されています。ついでホテルと売店が建設されたのは、1838年です。82軒の住宅に545人の人口でした。アボリジニは、土地を取り上げられて町の郊外に住んでいました。ジーロンは、ウール産業の中心としてと、ビクトリア植民地の西部地区への玄関口として発展していきました。


1850年代は、ジーロンに取って画期的な発展の時代です。1851年にビクトリア植民地がNSWより独立すると同時に金鉱脈がバララット周辺で発見されます。ジーロンは、金鉱山に最も近い港でした。海外からの移民や金山への物資の供給で大いに栄えました。若い男性は金山へ行ってしまいジーロンの街からいなくなったほどです。メルボルンではジーロンをねたんで金山への最短の距離はメルボルンであると嘘の広告をヨーロッパへ出したほどでした。

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