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ポートランド

南西遊歩道 ポートランド

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2012年5月08日(火)
南西遊歩道 The Great South West Walk
ポートランド Portland
グレートオーシャンロード
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

グレートオーシャンロードの西の端の都市ポートランドは、ビクトリア州では唯一、メルボルンよりも早く成立した町。
ポートランドの南西遊歩道からポートランド湾を見る。この方向(西)には、約100kmでワーナンブール、362kmでメルボルンへ到達する。移民当時では、ポートランド・メルボルン間は、風が順調であれば、1日、逆風であれば3日の距離。中間には、魔のバス海峡が待っている。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF14.0 1 /125秒 ISO感度 100 露出補正-2/3 太陽光 JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2011年2月03日 板屋雅博 撮影

 ポートランドは、グレートオーシャンロードの他の町と同様に、英国の調査船レディ・ネルソン号のジェームズ・グラント船長によって1800年に調査された。ポートランドの名前は、英国の貴族で首相を2度務めたポートランド卿に由来する。ポートランド港は、南オーストラリアのアデレードとメルボルンを結ぶ航路の中では最も水深が深く良港である。グレートオーシャンロード最大の港として栄えた。グレートオーシャンロードは、1800年代には、捕鯨船や、あざらし猟の船が徘徊した。1829年には、ポートランドに捕鯨船のステーションが設置されている。船員や漁師の経験から、ポートランドがビクトリアで最初の植民地として選ばれた。ポートランドの最初の植民者は、ヘンリー一族と云われているが、実はその前に捕鯨船船長のウィリアム・ダットン(William Dutton)が住みついていた。ヘンリー一族が、移民してきた際に、ダットンは、種イモをヘンリー一族にプレゼントしたとの逸話が残っている。

 ウィリアム・ダットンとヘンリー一族が、ビクトリアの最初の植民者ということになる。
エドワード・ヘンリー(Edward Henty)は、英国のイングランドから1829年に西豪州に移民して来て、その後、タスマニア(当時は、ヴァン・ディーメンズランド)に移動、1834年に家族と家畜を連れて、ビクトリアの西部地区に移住のためにやってきた。
34日の航海の後、1834年11月19日にポートランドに到着した。エドワード・ヘンリーは、24歳であった。
メルボルンに最初のジョン・パスコ・フォークナーの植民団が到着したのは、1835年8月30日。エドワード・ヘンリー家族のポートランド移民の方が、10カ月半ほど早い。
続いてエドワードの兄弟のフランシスが多くの家畜や生活必需品を持ってポートランドに到着した。
直ぐに家が建てられ、フェンスなども張られた。

Seascape Accomodation 

271 HANLON PARADE PORTLAND VICTORIA 3305
P (03) 55 233 960 Einfo@seascapeaccom.com.au

 当時は、タスマニアは、ほとんど開拓されており、ビクトリアは未開拓であったが、捕鯨船などの調査で、少なくとも海上からは十分に調査されており、いつでも移住できる状態にあった。後は、いつ誰が移民するかという状態にあった。
当時のポートランド一帯にも広くアボリジニが住んでおり、ヘンリー一家が移住した後、直ぐにアボリジニと遭遇している。
当時のビクトリアは、NSW植民地の一部で、シドニーの総督が管轄していた。ヘンリー一族にせよ、メルボルンに移民したジョン・パスコ・フォークナー、ジョン・バットマンなどは全てシドニーの総督の許可を得ない違法移民であった。

  1838年に土地の公式な売り出しが行われ、監督官(Surveyer)としてチャールズ・タイラーがポートランドを公式に調査、測量している。

ポートランド一帯に住んでいた原住民アボリジニは、Gunditjmara族。クジラを巡って捕鯨漁師とGunditjmaraの間でしばしば、問題が発生した。1834年には、海岸に打ち上げられたクジラを巡って、戦闘になった。
アボリジニ保護官にエドワードヘンリーが語ったところによると、クジラは伝統的に自分たちのものだと譲らないアボリジニは、石とやりを投げたのに対して捕鯨漁師は、銃で応戦し、女性、子供を含んで、アボリジニは、約40名(一説では200名)が殺された。生き残ったアボリジニは、2名のみ。

Museum Victoria

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