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豪州の夜明け

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2007年6月23日(土)
空白の地図
豪州の夜明けのころ。
この場所の地図Google Map
(クリックで拡大)
平戸、長崎

今日のメルボルンは快晴の天気予報でしたが、実際には、朝から夕方までまったくの曇りで、気温も10度前後と寒い一日でした。
このアジア、豪州の地図(地球儀)は、1700年にオランダ、アムステルダムの地球儀、天球儀作成家のヘラルト・ファルク(1651〜1726)によって作られました。ヘラルト・ファルクは優れた版画家でもあります。(長崎県平戸市松浦史料館所蔵

昨年の今日 2006年6月23日


この地図(地球儀)には、オーストラリア、タスマニア、ニュージーランドが書かれていますが、完全な形ではありません。豪州は、Hollandia Nova (新オランダ), タスマニアは、Anthoni Van Diement Land, ニュージーランドは、Zelandia Nova となっています。豪州を最初に発見したのは、探検家Willem Janszoonですが、彼はニューギニアと豪州がつながっていると誤解していました。1642年にオランダの探検家アベルタスマンは、豪州の西側を測量しながら南下して、タスマニアを発見しました。更に南下してニュージーランドを発見しています。
オーシャンブルー参照。その後は、英国人のキャプテンクックにより1769年に豪州の東海岸とNZの測量が行われています。
キャプテンクック参照。

  長崎県平戸 1550年よりポルトガルが来航し交易を開始しました。1609年にはオランダが商館を開設しました。しかし1638年の島原の乱により危機感を抱いた幕府により平戸の商館は閉鎖され1641年に長崎の出島へと移動させられました。
島原の乱で天草四郎軍をサポートしたポルトガルは、以降、日本への来航を禁止され、幕府軍をサポートしたオランダの独占となります。

即ちこの地図が描かれた1700年には豪州の東半分には、ヨーロッパ人は到達していなかったことを説明しています。NZがクック海峡により北島、南島に分かれていることを発見したのもクック船長です。

手前側は、温泉です。
平戸市公式Web
旗松亭

 南蛮船。平戸にやってきていたオランダ船と同じ型の船が豪州を発見し、タスマニア、NZを発見したのです。

オランダは、1602年に東インド会社(VOC)を設立し、本格的にアジアへの進出を開始しました。VOCの命を受けてオランダの探検家Willem Janszoonは、Duyfken号に乗ってオーストラリア、クインズランドのケープヨークに到達しています。1620年には、VOCは、インドネシアのバタビアにアジアでの本拠地を設立しました。その後、1635年からバンディーメン(Anthony van Diemen)が総督になっています。1641年にオランダ東インド会社は、長崎の出島に商館を開いています。タスマニアの古い地名であるバンディーメンズとは長崎の出島に商館を開設した人物なのです。

The Duyfken

The Duyfken Timetable

Dufken号のレプリカ

 正面にはフランシスコザビエル教会が見えます。この一帯に、スペイン商館、英国商館、オランダ商館、ポルトガル商館が開設されました。当時の日本との貿易は、アジアの取引の7割を稼ぐなど、大きな利益を各国に生み出しています。

尚、平戸は、また徳川家康の外交顧問ウィリアムアダムズ(三浦按針)が1620年にこの地で亡くなっています。近松門左衛門の浄瑠璃で有名な台湾の英雄、国姓爺鄭成功が1624年に生まれています。

豪州の夜明けを平戸の博物館で見つけた地球儀から追ってみました。

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