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アームストロング砲 佐賀城本丸歴史館

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2019年4月30日(月)
アームストロング砲 
佐賀城本丸歴史館
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アームストロング砲。メルボルンでゴールドラッシュが始まった1851年、佐賀藩で日本初の反射炉が完成、本格的鉄製大砲の製造が始まった。それまでの青銅製は砲身が割れやすく射程も短距離であった。

撮影データ i phone XR 絞りF1.8 1/526秒 ISO感度 25 露出補正 オート 2019年4月27日15:11 板屋雅博 撮影

 大砲の生産技術を支えたのは有田磁器の高温焼成技術、特に耐火煉瓦、佐賀の高純度石炭であった。佐賀藩は幕府から東京湾お台場に設置するキャノン砲30門を受注し納品している。中でもアームストロング砲は性能が高く、射程距離は1.5kmと近代戦には十分であり、弾丸を後側で装填する方式で、連続発射時間も1/10に短縮された。英国の最新工場でのみ生産可能な高性能大砲を佐賀藩が製造したことは大変なことであった。他藩や幕府も生産したが、ほほ失敗に終わっている。佐賀藩は、上野の彰義隊戦以降の参戦で維新戦争には人的貢献は少ないが、薩長土肥の主要4藩のひとつに数えられるのは、科学技術による貢献の為である。


 
アームストロング砲は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲。マーチン・フォン・ウォーレンドルフが発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では10分の1にまで短縮された。 砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。 アームストロング砲は、全体を一度に鋳造するのではなく、いくつかの部品を組み合わせて作製されていた。砲身は「Aチューブ」(当初は錬鉄製、後に低・中炭素鋼)と呼ばれる砲身内腔部をいくつかの錬鉄性のコイルで嵌め込んだ層成砲身で、コイルの圧力により強度を増加させていた。砲の施条は38口径長で1回転するように掘られていた。 鋳鉄製の砲弾は、薄い鉛で内腔径よりやや大きくなるようにコーティングされていた。この鉛部分が砲の施条に食い込み、砲弾に回転が与えられる。従来の前装滑腔砲に比べると、内腔と砲弾の隙間がないことにより、より少ない装薬量でも射程が伸び、砲弾の回転により砲撃精度を高めることができた。

 1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る新兵器として期待されていた。薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦「ユーリアラス」に搭載されていた1門が爆発するという事故が起こった。アームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、第二次長州征伐と戊辰戦争で使用された。江戸幕府もトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。 戊辰北越戦争で長岡藩軍がアームストロング砲で、榴散弾を発射して奇兵隊ら官軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。 上野戦争や秋田戦争でも使用されている。



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