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日本

武雄温泉楼門と辰野金吾

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2019年5月1日(火)
アームストロング砲 
佐賀城本丸歴史館
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武雄温泉楼門は、東京駅駅舎と兄弟建築物。共に佐賀県唐津市出身の建築家、辰野金吾博士の設計。武雄温泉楼門天井のレリーフ4枚と東京駅ドーム天井の8枚で十二支が揃い、東京駅建築の謎が隠されていると言われている。

撮影データ i phone XR 絞りF1.8 1/1205秒 ISO感度 25 露出補正 オート 2019年4月27日15:19 板屋雅博 撮影

 武雄温泉の開湯は奈良時代の800年頃で、秀吉の朝鮮出兵では負傷兵士の湯治場として利用された。江戸時代は長崎街道の宿場町として栄え、幕末には長崎を往来した勤皇志士や文人らが投宿した。佐賀藩鍋島藩主、伊達政宗、宮本武蔵、シーボルト、吉田松陰が入湯した。辰野金吾は、工部省工学寮(東大工学部)で、英国出身の建築家ジョサイア・コンドルに師事した。帝国大学大学教授・学長、日本建築学会を設立。大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912年(明治45年)に尽力した。

 
武雄温泉新館及び楼門は,近代に入り,観光温泉町として発展した武雄の拠点として計画された。ともに辰野・葛西事務所の設計,清水満之助の施工で,新館は大正3年8月6日,楼門は同年11月20日に上棟,大正4年4月12日に落成式が挙行された。
 新館は,正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部を中心に,両翼を張り出し,背面に浴室,便所を別棟で附属する。
 楼門は,入母屋造本瓦葺の木造二重門で,竜宮門形式である。
 武雄温泉新館及び楼門は,伝統的な和風意匠を基調としつつ,細部意匠や架構等に新しい試みがみられ,高い価値がある。当時の建築界をリードしていた建築家の辰野金吾が関与した数少ない和風建築としても貴重である。
 全体の配置計画などにも特徴があり,わが国の近代保養施設の歴史を知る上でも重要である。

 宮原忠直は1893年に九州鉄道会社に入社、鉄道マンとして、門司、博多、佐賀、折尾の各駅で勤務。2年後の1895年4月に依願退社、武雄までの鉄道が開業した翌日の5月6日に宮原運送本店を創始。1907年には日本逓送株式会社を設立、「九州の虎」と呼ばれ、九州の運送業界のトップを走るまでになった。1905年、武雄温泉初代組長の祖父、3代・5代組長の父のあとを受け、武雄温泉組(のち武雄温泉株式会社)9代目組長となった。また、この期に地質学の専門家に依頼して3年がかりで新泉脈を発見、この泉脈を使った新館浴場の建築を計画。県会議員時代の1914年から武雄温泉を中心に据えた「竜宮城」構想に基づくテーマパーク実現のため、東京駅の設計者で唐津出身の辰野金吾博士の設計事務所に「温泉楼門」と「新館」を発注し建設、翌年完成、武雄への観光客誘致に多大な効果を挙げた

 


日本銀行本店 1896年 重要文化財
日銀 京都 1906年 重 京都文化博物館別館
第一銀行京都支店 1906年
日本生命九州支店 1909年 福岡市
奈良ホテル 1909年 奈良県奈良市

 辰野金吾



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