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クイーンズクリフ 中央桟橋 Cueenscliff Main Pier

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2022年2月6日(日)(responsive版)
クイーンズクリフ 中央桟橋 
Cueenscliff Main Pier
クイーンズクリフ
Queenscliff
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map) 

右側はポートフィリップへの狭い進入口であり、東側へ向かってポイントネピアン岬があり、西側にはポイントロンズデール岬がある。風が激しく吹く(blustery)、直線的な(unyielding)バス海峡の水路である。バス海峡は唇(The Rip)として知られる世界で最も危険な水路である。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2010年12月28日16:21 板屋雅博 撮影

 右側に寄るとブラック灯台がショートランドブラフ絶壁があり、ポートフィリップ桟橋(Port Phillip Sea Jetty)、クイーンズクリフ要塞のタワーなどが見える。桟橋の左側には、水深が浅い湾があり、数十年の間、プレジャーボートの遊び場、旅行者旅客用フェリーとなており、ボート愛好家、スイマー、ビーチ愛好家などの遊び場となっている。1860年に建設された最初の桟橋と、1890年に建設されたアイランド突堤は、現在の中央桟橋の北側に建設され、食料品の供給など生活物資の輸送に使われた。バラライン半島内だけでなく、ポートシー(Portsea)や、キングアイランド(King Island)島、ジーロンの市場などへの輸送に使われた。

 ボート用のハーバーが掘られる前に、この辺りは商業用の漁業地であり、当日の漁獲が漁船から降ろされる場所であった。湾岸を走る蒸気船が立ち寄り、レジャーボートも多く見られた。現在の桟橋が年々と建設が進められ、延伸が実行された。桟橋の途中に待合室がある。そこではフェリーボートが到着する間、待機する場所であった。救命用ボート小屋が桟橋の東端にあって輝いている。ポートフィリップ湾の南側の常に移動する砂が現在の状態を作る重要な役割を果たしている。湾を走る蒸気船は、1910年がピークで第一次大戦で急速に減少した。最後の蒸気船は、PS Weroonaは、1942年まで稼働した。

 Lifeboat shed queenscliff
救急ボートサービスは、いくつかの場所で1856年から1976年まで運営された。
最後の救急ボートは、ディーゼルエンジンのクイーンズクリフ号で地元の主に漁師が乗組員であった。遭難信号ベル(Wreck Bell)の不吉な音が鳴り響くと、数分以内に乗務員は準備をして、海に突進して難破船や立ち往生した船員、乗客、船舶を救助した。救助隊員には給料が支払われた。1939年には、1回の練習につき16シリング、出動には25シリングであり、漁師の副業として歓迎されていた。毎月の練習会は、地域のイベントとなり大盛況であった。毎月土曜日の朝9時に100名以上の見物人(on-looker)が集まって歓声を上げ、救難ボートが船用斜面を下って、時速55kmで走るのを見物した。

 実際には、救助出動は不可避的に夜間に起こった。勇敢なドラマチックな救出劇は有名な歴史の一コマとなった。最も有名な悲劇の海難は、1887年にポイントネピアンの東側で起こった蒸気船シェボワ(steamer Cheviot)事件である。
SS Cheviot号は、1870年にイングランドのニューカッスル市(Newcastle upon Tyne)のローウォーカー地区(Low Walker)にあるチャールズミッチェル会社(Charles Mitchell and Co.,)によって建造された鋼鉄製スクリュー式蒸気船である。メルボルンのハワードスミス&サン社によって所有され石炭と旅客を輸送した。1887年にポイントネピアンの近くでプロペラが効かなくなって遭難し、35名が亡くなった。近くのビーチはシェボアビーチと名付けられた。


 1226総トン、積み荷トン数764トンT. Clark & Co社製垂直式直接駆動複合エンジン(vertical direct acting engines)を積載していた。
シェボア号は、1876年に植民地間で旅客、石炭運搬船としてメルボルンで登録された。1887年10月19日の夜、蒸気船シェボワは、シドニーを目指してメルボルンを出航し、ポートフィリップ湾の出口を航海していた。午後8時南西の強風が吹いて、船は外洋に達した時、プロペラが使用不能に陥った。動力を失ったシェボア号は、岸に向かった。海は非常に荒れていた、救命ボートを降ろすことが出来なかった。帆が張られて、アンカーが下ろされた。

 しかし効果が無く、午後9時に岸に到達した。緊急ロケットが発射され、救命ボートが数時間後に到着したが、荒れた海の為にクイーンズクリフ救命ボートは、船にたどり着くことは出来なかった。午前4時にロケット推進救命ラインが船に到達して24名を救助したが、救助作業の最中に船首のキャビンにいた船客もろとも船が沈没して、が死亡した。


 トーマス・B・リチャードソン(Thomas B. Richardson)船長は、蒸気船航海局( Steam Navigation Board)による調査から解放され、船と乗船していた人々を救おうとした行動によって称賛された。8名は、近くの検疫ステーションの墓地に葬られた。悲劇の場所は、チェボアビーチと名付けラテた。1967年にハロルド・ホルツ(Harold Holt)連邦首相がたぶん溺れて行方不明になった場所でもある。




 ポートフィリップ湾の入り口をThe Rip(唇)というが、移民初期の船団が到着する際に、世界で最も危険な水路のひとつとして知られていた。航海上の悪夢があったが、水中の岩礁、不意の海流、強い潮流、時々吹く南西突風であった。
帆船Isabella Watsonは、Corsair Rockに1852年に座礁した。バルク船(barque)ウィリアム・ソルトハウス(William Salthouse)号は最も知られた話である。ソルトハウス号は、ポイントネピアン岬で岩礁に衝突した後、湾内で苦闘してポープスアイ(Pope's Eye Shoals)地区で沈没した。クイーンズクリフとポートシーの中間のあたりである。141年後に沈没船の残骸は、他の12の沈没船の場所に移動され、スクーバダイビング用の沈没船発見トレイルの一部となっている。

 海用蒸気エンジン(Marine steam engine)は、船やボートに動力を与えるために使用される蒸気エンジンである。 レシプロ蒸気エンジン(往復運動形式)は、1800年代初頭にボートに使用されてから 第二次世界大戦中に大規模に製造された。レシプロ蒸気エンジンは 1900年代には、蒸気タービンや海用ディーゼル・エンジンで置き換えられた。レシプロ式海用蒸気エンジンは、接続機構とシリンダー技術に関して多様な種類が1800年代に開発された。初期の海用エンジンのシリンダー技術 は、1段式膨張 (simple expansion)エンジンであった。
クランク軸に動力を供給するための幾つかの接続機構) を使用する。 サイド・レバー (side-lever), スティープル (尖塔、steeple)、 ウォーキング・ビーム (walking beam) 、直接駆動 (direct-acting) がある。

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