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マリーマキロップ Mary Helen MacKillop カトヌーク Katnook hollic Coonawarra

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南オーストラリア州

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Mary Mackillop

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2022年8月28日(日) resposibe版
カトヌーク Katnook
ホーリック Hollic ワイナリー
クナワラ Coonawarra
南オーストラリア州
South Australia
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メアリー・ヘレン・マキロップは、ローマカトリック教会によって聖人に叙せられた唯一のオーストラリア人修道女である。
メアリーは1842年1月15日にメルボルン近郊のフィッツロイに生まれた。メルボルンの名前は同年8月12日である。

撮影データ Canon EOS 5D MarkⅡ シャッタースピード優先AE 評価測光 1/160 絞り10 ISO感度 100 オート 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2011年2月4日14:40 板屋雅博撮影


 メアリーは、オーストラリアとニュージーランドの特に田舎の恵まれない子供たちの為に、数多くの学校と福祉施設を建設した。
1995年にローマ法王ジョン・ポール・二世(Pope John Paul II)によってマリーは聖人に次ぐ福者に叙せ( beatification)られた。ベネディクト16世は、2010年にバチカンにおいて聖人に叙せられた。オーストラリアに於いて最初で唯一の聖人となった。
メアリーは、ローマカトリック教会ブリスベン教区のパトロン聖人である。


 マリーの父、アレクサンダーは英国スコットランド人でカトリック教会の牧師になり、28歳でシドニー経由でメルボルンに移民した。母フローラ・マクドナルド(1816年生まれ)は、1840年にメルボルンに移民した。二人は1840年7月に結婚して、8人の子に恵まれた。父アレクサンダーは、メルボルンでのカトリック教会の普及に努力したが、一方で金鉱山などの実業にも力を入れた。しかし実業はアレクサンダーには向いていなかったようで、事業は全て失敗して、家族を養うことは出来なかった。マリー達家族は困窮した。マリーは、8歳の時に洗礼を受けている。
マリーは、家族を養う為に、1859年、16歳でメルボルンコリンズ通りのの文具店・紙商店Sands and Kennyで店員として働き始めた。


 18歳で叔父叔母の邸宅で住み込みの家庭教師となった。叔母のマーガレット・マキロップは、サウスオーストアリア州ペノーラで大地主であるアレクサンダー・キャメロンと結婚していたが、住み込みで子供たちの教師をした。キャメロンの大所有地の小作の子供たちの面倒を見ていた。このころテニソンウッズ(Tenison-Woods)牧師と出会った。1857年にセブンヒルで教育を得てから、南豪州の南西地区の選任牧師であった。マリーマキロップは、1862年にビクトリアのポートランドで子供の教職を得るまでの2年間をキャメロン家で過ごした。マリーは1864年に全寮制のベイビューセミナリーBay View House Seminaryを開校したが、現在のベイビュー高校Bayview Collegeとなっている。マキロップの家族も加わった。



 . 1866年テニソン牧師は、マキロップと妹のアニー(Annie)、レキシー( Lexie)をペノーラに招いて、カトリック教会学校を開いた。ウッドは、マキロップと共に同校の責任者となり現在も健在である。兄弟たちによって校舎が改築され、マキロップは50名以上の子供たちの教育を始めた。この時、マキロップは、神への貢献を誓って、黒い服を着用始めた。
1866年11月21日の生神女進堂祭(Presentation of Mary)に数名の女性がマキロップの学校に加わった。マリーは、キリスト教の聖なる名前であるSister Mary of the Crossを自身の名前として、マリーと妹のレキシーはシンプルな礼服を着用した。少人数のグループは、自分たちをSisters of St Joseph of the Sacred Heartと呼んでいた。アデレードのグローと通りにある新しい本拠地に移転した。ローレンス・シェイル司教(bishop, Laurence Sheil)の依頼で新しい学校を始めた。


 ウッドとマリーは、自分たちのコミュニティに人生のルール(rule of life)という名前を付けた。
シンプルな生活(poverty)、神の土地に於ける独立(dependence on divine providence)、個人所有の否定(no ownership of personal belongings)、神が与え、必要とされる仕事への意思などを掲げた。

クナワラワイン地区の最も大きな特徴は、赤土(terra rossa soils)にある。
赤土が露出した場所は記章である。
テラロッサとは、間帯土壌に分類される土壌で、イタリア語で赤い土を意味する。 石灰岩の風化によりでき、地中海沿岸に主に分布している。石灰に含まれる炭酸カルシウムが溶け出し、後に残った鉄分などが酸化したために赤紫色をしている。もとは地中海沿岸のものを指したが、のち同じ起源の赤色土壌にも使われるようになった。

 「人生のルール」は、1867年末にシェイル司祭の認可を得た。新たに10名の修道女ジョセフィーテ(Josephites)に加わった。修道女は質素な茶色の修道服を身に着けた。修道服の色と名前からジョセフィーテシスターズは、茶色のジョーイズ(Brown Joeys)と呼ばれた。
1848年にスコットランドからの移民アレクサンダー・(サンディ)キャメロンは、NSWからペノーラに移り住んだ。ビクトリアのゴールドラッシュ地区に向かう移民でキャメロンのロイヤル・オークホテル(Royal Oak Hotel)は大繁盛した。
アレキサンダーの指導力の下で、スコットランドのハイランダーカトリック教徒は、マキロップを称賛した。


 カトナックワイナリー Katnook Estate
1896年、ジョン・リードックがカトナックのウール倉庫でクナワラ地区で最初のビンテージを製造したことに始まる。
1867年、ジョン・リドックは、は現在、カトナックのバレルルームが立ち、操業している場所に羊毛倉庫を稼働した。
1890年にリドックは、クナワラ果物農場(Coonawarra Fruit Colony)を操業し、本社としてカトナックを置いた。リドックは、10エーカーの土地を売却し、クナワラワイン地区が生まれ、この場所にカトナックワイナリーが出来た。


Hollick Estates
11 Racecourse Road, Penola SA 5277
Cellar Door: 08 8737 2318
創業:1983年

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