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ビシェノ Bicheno 海岸 Beach

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2008年9月14日(日)
タスマニアの歴史 その2
海岸 Beach
ビシェノ Bicheno
タスマンハイウェイ Tasman Highway
タスマニア Tasmania
この場所の地図 Google Map

朝のビシェノの海岸です。
このあたりの海岸は、夏場には豪州本土から多くの海水浴リゾート客が訪れます。しかし広い海岸なのでほとんど人に会うことはありません。

撮影は、今年の2月です。

昨年の今日2007年9月14日(ポートアーリントンタウン Portarlington


 1803年にシドニーからの囚人と軍人による最初の移民団がホバートに入植しました。
1804年から数年をかけてホバートの基礎作りが行われます。
英国国教会(Church of England)の司祭によるミサが行われ、ホバート最初の墓地が現在のSt Davis公園に作られました。
同時にPort Dalrymple(Tamer River)、George Town、York Town(Launceston), Norforkなどタスマニア各地の海岸の良港への入植も始まりました。
最初の5年ほどは、食糧の自給自足が出来ずにを、英国からの補給に頼っていましたが、帆船による補給が十分でなく食糧が極端に不足して厳しい情況が続きました。
1805年には、オーストラリアで最初の捕鯨基地がRalphs Bayに作られました。
1807年から1810年にかけては、タスマニア内部への調査が進みます。
ロンセストンからホバートへの最初の探検隊が1807年に成功しています。

  1810年頃には、農業収穫物の生産量が増え、自給自足が出来るようになり、ホバート、ロンセストンなどの街の基礎が出来上がってきて、近代産業が次々に育っています。
最初の製粉工場が建設され、新聞の発行が始まります。
ホバートの街の基本設計が始まり、公共建設物の建設が開始されました。
Mt Nelsonの信号所(Signal Station)が建設されました。当時は、まだ電信も無い時代です。
1812年にホバートにタスマニアの植民地経営を集中しタスマニアの首都としての機能が開始されました。
1813年に最初の郵便局がホバートに開設されタスマニア全土への郵便が始まりました。
植民地政府軍事施設(Anglesea Barracks)が建設されました。現在も使用されている豪州最古の軍事施設です。

 1815年頃には、市民生活に余裕が生まれ、最初の競馬場が開設されました。1819年にはホバートに病院が開設されました。
一方で反乱囚人などがギャング団(Bushrangers)を作ってタスマニア内部で銀行強盗などの暗躍を始めています。タスマニア総督は、戒厳令(Martial Law)を発して、警戒態勢を作っています。
シドニーへ最初の小麦の輸出が始まりました。
1816年に初めての自由市民による殖民団が英国より開始され、タスマニアの植民地としての魅力が英国で理解されだしています。
1820年代には、Perth, Campbell Town, Ross, Oatlandsなど内陸部の町の建設が進みます。
カトリック、メソジストなどの教会の建設が始まります。
Merino種の羊が輸入され羊毛産業が発展します。

 1824年には、カスケードビールの生産が開始されました。タスマニア植民地最高裁判所、農業委員会なども作れられました。
1825年には、タスマニア植民地がNSW植民地から分離して、英国本国と直接につながる政治体制が作られました。

タイヤモンド島

ビシェノの町の中心部

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