シティ案内

今日の一枚へ

会員用

タスマニア百景トップ

Cradle Mountain Wilderness Village

メルボルン百景トップ


2008年6月12日(木)
コッテージの朝と森林地帯
Wilderness Village
クレードルマウンテン Cradle Mountain
(世界遺産 World Heritage)
タスマニア Tasmania
この場所の地図 Google Map

久し振りに快晴の気持ちが良い朝となりました。午後にかけても晴れの天候が続きましたが、夕方からは雨の予報でしたが、ほとんど降りませんでした。

昨年の今日2007年6月10日(オーストラリアンフットボール

東京神田に本格的なメルボルン(イタリアン)カフェ ペレのエスプレッソがオープンしました。オージーやメルボルンファンが集まる店です。オーナー店長のエドさんによろしく!!

  タスマニアは、約1万年前の氷河期までは、オーストラリア本土の一部でした。ビクトリア州の南東の海岸地帯に連なっていました。大がかりな地殻変動によって本土から切り離されました。
タスマニアの地層の大半は、火成岩の一種である玄武岩でジュラ紀の頃に形成されました。タスマニアは、世界最大の玄武岩の鉱床であり島のあちこちで玄武岩の露出が見られます。ホバートの裏山であるウェエリントン山が良い例です。タスマニアの北東部から東にかけては、花崗岩の地帯です。北西部から西部にかけては、火山岩石の地帯です。南部から、北西部にかけては石灰岩も見られます。中央高地、や山岳部、南西部、クレードル山地区には珪岩や玄武岩が見られます。
このような地質的な特質は、タスマニアの自然が世界の他の地区との違いの基本的な特徴です。

 タスマニアに原住民族アボリジニの先祖が住み始めたのは、3万5千年ほど前です。従ってタスマニアが本土の一部であった頃から住んでいる訳です。
1803年に英国人が移住を始めた頃のアボリジニの推定人口は、1万人ほどで、9つの部族に分かれます。
しかし英国人によるアボリジニせん滅作戦(ブラックライン Black Line)の結果、わずか30年後の1833年には、300名ほどまでに激減しました。残った300名のアボリジニも全員、英国植民地政府によってフリンダース島へ強制移住させられています。
英国人による最初の定住は、1803年のことです。シドニーへの入植は1788年に始まっており、15年を経て豪州開拓基地として実力もついてきていました。

  Cradle Mountain Wilderness Village
クレードルマウンテン公園内部の宿泊設備は限定されています。
Cradle Mountain Road
Cradle Mountain
Tasmania 7310
Phone: 61 3 6492 1500

1803年、シドニーからJohn Bowen中尉らの入植者がホバートのRisdon Coveという入り江に定住を開始しました。主な目的は、当時ヨーロッパで猛威をふるっていたナポレオンボナパルトのフランスが先に領有宣言するのを防ぐためです。
翌1804年、ロバートコリンズ大尉による本格的な定住団が、5kmほど南のSullivan's Coveに入ってきました。

 木立に囲まれたコテージ。

コリンズ大尉は、1788年のシドニーへの最初の入植隊の一員としてオーストラリアへ赴任してきており、メルボルンの南、ソレントへの最初の入植者としても有名です。タスマニアの初代総督です。メルボルンとホバートにコリンズ通りの名前を残しています。
コリンズ通り 

オーストラリア デー

会員専用追加画像(枚)
子供たちの踊りの場面がたくさんあります。
750サイズの大画像です。

入会案内(無料)

このページのトップへ

下記に『メルボルン百景』のサイト内検索機能を付け加えました。 調べたい単語を入れてみてください。ヤラ川、トラム、レストラン、ワイン、などなんでも検索できます。

Google
WWW を検索 ”メルボルン百景”を検索

当ページに記されている内容の信頼性に関しまして、筆者は責任をもっておりません。ご注意ください。
当ページ及び付属のページに記載されている内容や画像を無断で複製・転載・使用することを禁じます。
当サイトは、ホームページ、ブログなどにリンクフリーです。リンクされたら下記までご連絡ください。
Copyrights (C) 2005-2010 Melbourne Hyakkei All Rights Reserved.

inserted by FC2 system