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クープ家のショットタワー Coop's Shot Tower

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2015年3月15日(日)
クープ家のショットタワー Coop's Shot Tower
メルボルンセントラル
Melbourne Central
ラトローブ通り La Trobe Street
メルボルン Melbourne
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メルボルンセントラルショッピングセンターの中に記念碑として内包されているタワーは加熱後に溶けた鉛を落下させて水中に落とすことにより、真球の鉛の玉を製造する工場であった。鉛の玉は銃の弾丸などに使用された。メルボルンの繁栄期の象徴である。無料の博物館が衣料品店舗の奥にある。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞りF6.3 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 -1/3 オートJPG レンズ EF 24-70 mm f/2.8L USM  2015年1月24日15:15 板屋雅博 撮影


クープ家のショットタワー Coop's Shot Tower
住所: 211 LaTrobe Streett
建築年:1889 - 1890
建築用途:工場(鉛玉製造)
現在の用途:商用(ショッピングセンター)
高さ:50m  1940年代まではメルボルンで最も高いビルであった。
階層:2階(事務所部)
内部の階段数:327段
建築時期:ビクトリアン
建築様式:ロマネスク
1973年に解体の危機を免れて、1991年に建設されたメルボルンショッピングセンターの内部に残された。ショットタワーの上のガラス製の屋根は84mの高さがある。鉛が使用された理由は、融点が低いので製造が比較的簡単であったからだ。鉛の玉は銃の弾丸や産業用と船のバラストとして使用された。

ショットタワーは、最上部から溶けた鉛を落下させ落下途中で真球になる性質を利用して鉛球を作る製造工場であった。ショットタワーは1890年に完成して1961年に停止するまで毎週6トンもの鉛玉を作った。ショットタワーはクープ家によって所有され運営されたいた。クープ家はショットタワーの他に配管資材のビジネスも行っていた。メルボルンに現存するもうひとつのショットタワーであるクリフトンヒルのショットタワーもクープ家によって運営されていた。1960年代に入ると鉛弾丸の需要は急速に減っていった。


ショットタワーの最上部で鉛が溶けた状態になるまで加熱され、その後、銅製の篩(ふるい)で一定の大きさにを整えられた後、落下される。溶けた鉛は、落下中に表面張力の作用で真球になり、また冷えて徐々に固形化になる。表面などが部分的に固形化した鉛玉はタワー下部に設置された水桶に落下する。水桶で完全に冷却された鉛玉は検査後にサイズ別に分けられ貯蔵される。球になっていないものや大きさが足りないものは再溶融に回される。少し傾いたテーブルが真球性の確認に使用された。大きな鉛玉を作る場合には、上部の銅製篩の穴が大きなものが使われた。大きなサイズの鉛玉は落下の際に高さを要する。つまり大きなサイズの鉛玉を作ろうとすると
必然的に高いショットタワーが必要になった。鉛玉の仕上げには少量の黒鉛カーボンが潤滑性と酸化防止のために使われた。


ショットタワーによる鉛弾丸製造法は、英国のウィリアム・ワッツ(William Watts)によって1782年に発明され、特許登録された。同年、ワッツは同年、自宅を改造して最初のショットタワーを建設している。それまでは鋳物で成形する方法や、溶けた鉛を水桶に落とす方法があったが、いずれもコストが大きく、不十分な成形であった。ショットタワーも大きなサイズの鉛玉は作れないので、鉛の材料から切り出す方法で製造していた。風タワー法(wind tower)が1848年にニューヨーク市のT.O LeRoy 社によって発明された。これは冷たい風を強制的に吹き込む方法で落下距離を大幅に縮めた。そのため高いタワーは不要になった。しかし1890年頃まで高いタワーが引き続き建設され、1916年と1969年に建設された例もある。1960年代にいくつかの製造方法が発明され、ショットタワーは不要になった。また火薬を内包した実包が主流になり弾丸自体が不要となっていった。

Wikipedia (Shot Tower)


クープ家の初代ジェームズ・クープ(James Coop)は1855年にメルボルンに移民してきた。当時、メルボルンはゴールドラッシュ熱に浮かされていたが、ジェームズは賢明にも金鉱山には興味を示さず、水道などの配管をビジネスとした。小さなショップをコリンズ通りのリージェント劇場の近くにオープンした。ジェームズのビジネスは急速に拡大し、1868年に市内の工業地区であったノックスプレイスに移転した。スワンストン通り、エリザベス通り、ロンズデール通り、ラトローブ通りで区切られる一角は、金物屋、洋服店、たばこ製造店、宿屋、トイレ業者、宝石店、お菓子店、家具製造業者、馬車製造業者などの製造販売店がたくさん集積した地区であり、メルボルンの製造業の中心地でった。クープ家のビジネスも正にその中心地にあった。

製造された鉛玉は主に小動物のハンティング用途に使用された。原料の鉛は南豪州のポートピリー( Port Pirie)で採掘され、メルボルンへ鉄道輸送された。鉛は価格変動が大きく、安い時期に大量に購入され、ショットタワーの隣の建物に貯蔵された。

ショットの作り方。作業員はまず鉛塊バーをタワー2階のバケツの中に入れる。作業員は約300階段をタワーの頂上まで登る。次に滑車を利用して鉛塊を入れたバケツを頂上まで引き上げる。次に石炭ガスコンロに点火して摂氏118度まで溶解鍋を加熱して鉛を溶かす。耐火ひしゃくを使って作業員は溶解した鉛をコランダー(濾し器)に入れると、そこから50m自然落下して、2階の水をはった桶に入る。
2階の作業員は冷えて鉛玉をショベルで回転乾燥機に入れる。その際に自動分級のために穴が開けられる。その後、袋詰めして出荷された。


25百万ショットが製造されたが、クープ家ではショット以外にも様々な鉛製品をここで製造した。おもり、くぎ、はんだ材料、トラムの乗り口段、メルボルンの初めての電化システム用の鉛管などであった。

1894年には週に6トンの鉛玉を製造しており、同年クリフトンヒルのショットタワーの経営権も獲得している。クープ家は南半球で最大のショット製造業者となった。

英国、アメリカ、豪州、カナダ、ドイツ、などに数多くのショットタワーがモニュメントとして現存している。




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