シティ案内

今日の一枚へ

ブライトン サンドリンガムトップ

旧メルボルン刑務所墓銘石材 Old Melbourne Gaol Burial Markers

メルボルン百景トップ

2015年6月7日(日)
旧メルボルン刑務所墓銘石材
Old Melbourne Gaol Burial Markers
ブライトンBrighton
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

メルボルンの南岸、ブライトンビーチに旧メルボルン刑務所のブライトンビーチ墓銘石材(埋葬記念マーカー)がある。ブライトンビーチ駅から歩いて数分の場所にブライトンビーチの手前に波消しブロック兼桟橋があるが、その手前の護岸ブロックがその場所である。護岸ブロックの上は散歩道のエスプラネード通りとなっている。

撮影データ
Canon EOS 5D MarkU絞り優先AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 オート JPEG レンズ EF 24-70mm f/2.8L IS USM
2015年1月21日16:21 板屋雅博撮影

 ブライトンビーチの海岸に沿ってブルーストーン製の護岸壁があるが、その中のスブロックは旧メルボルン刑務所の一部であった。メルボルン刑務所が1920年代と1937年に閉鎖され、いくつかの建物は保存さたが、取り壊された建物もある。
ブライトンのブルーストーンの護岸壁は、解体された壁の石材を再利用されたものである。

ブルーストーン石材のいくつかにはかつてメルボルン刑務所に収監されていた囚人のイニシャルや処刑された日付が刻んである。囚人たちはメルボルン刑務所で絞首刑を執行され埋葬された。
メルボルン刑務所で処刑された囚人たちは墓石が与えられなかった。その代りに処刑された囚人のイニシャルと処刑された日付が囚人が埋葬された場所に一番近い場所にあったブルーストーン石材に刻まれた。





 1700年代から1800年代の英国や英国植民地、米国の多くの墓地では処刑された犯罪者の埋葬の際に墓石には名前を入れなかった。これは家族の不名誉が後世まで残るのを防ぐためであった。ただし記録に残すために番号のみが墓石に記入されていた。メルボルン刑務所の場合は、ブルーストーン石材の壁にいにイニシャルと日付を記入する方法が取られた。


Onmydoorstep



ブライトンビーチ海岸護岸壁には6個の旧メルボルン刑務所のブルーストーンに埋葬記録が残っている。ブライトンビーチ以外の場所ではブライトンとボーモリス(Beaumaris)の中間にある護岸壁にも同様の埋葬記録がある。
ブライトンビーチの記録
Philipi Castillo (executed 16.9.1889);
John Wilson (23.3.1891);
Joseph Pfeffer (29.4.1912);
John Conder (28.3.1893);
Fatta Chand (27.4.1891) a
William Colston (24.8.1891).



第一次大戦後の世界大恐慌の時代に、ブライトン市議会は地元の失業者の雇用のため公共事業を計画した。1930年にグリーンポイント岬と近隣のビーチを波からの浸食から守るため、ブルーストーン石材を使った護岸壁の制作を決定した。大恐慌の時代、政府は公共事業を盛んに行った。この時期の公共事業による賃金の支払いを豪州のスラングでスッソ(Susso=sustenance)と呼ぶが正にそのような性格の公共事業であった。石材は旧メルボルン刑務所の外側の壁から取られたが、。護岸工事を担当した責任者には刑務所の石材自体を保護する意図は特になかった。従って多くの場合は、イニシャルが刻まれた石材の多くはイニシャル面が内部を向いてしまった。有名な犯罪者ネッドケリー(Ned Kelly)の墓銘石材などがまだ見つかっていない。



 旧メルボルン刑務所の考古学的調査は2000年頃から始まった。2002年3月ラトローブ大学の考古学者は旧メルボルン刑務所病院跡地からブルーストーン壁に沿った場所でひとつの完全ン状態の棺桶を発見した。その後、病院跡地が大規模な墓地であったことが判明した。この後、埋葬された囚人たちの状況が徐々に明らかになった。

ビクトリア州公共記録事務所

 Bayside

このページのトップに戻る   

inserted by FC2 system