ポートメルボルンや、ウィリアムズタウンからの貨物や人は、メルボルンのキング通りに建設されていた倉庫まで、再度、列車で運ぶ必要があり、かなり非効率でした。植民地政府は、1877年に英国人技師Sir
John Coodeを招へいし、ヤラ川のバイパスの建設を開始しました。1870年代には、当時の大型貨物船がヤラ川をさかのぼって、現在のクラウンカジノの前まで上がってきています。クイーンブリッジ橋のところで回頭する貨物船の写真は多く残っています。その頃には、サウスメルボルンが港地区として栄えました。帆船Plolly
Woodsideが置いてある海洋博物館には、Duke and Orrというドック(修理ヤード)の遺構が残ってますが、これが当時の唯一のなごりです。