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コール船長  George Ward Cole

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George Ward Cole

La Trobe

伝記集

旧財務局


2023年9月30日(日)(responsive版)
ジョージ・ワード・コール George Ward Cole
オールド・キング・コール(Old King Cole)
Port Phillip Steam Navigation Company
ヤラエッジ Yarra edge
ドックランズ Docklands メルボルン
この場所の地図(Googole Map)

ジョージ・ワード・コールは、1793年11月15日に英国イングランドのダラム市(Durham)ラムリー城(Lumley Castle)に生まれた。1807年14歳の時に英国海軍に入隊した。士官候補生(midshipman)として西インド諸島に駐在した。

撮影データ Canon EOS 5DMarkⅡ 絞り優先AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2010年12月14日13:56 板屋雅博 撮影

 サントドミンゴ(Santo Domingo)をフランスから取り戻す軍事行動に加わった。1810年には英国海峡艦隊(Channel Squadron)に転勤した。ダウンズ(the Downs)地区の船でも勤務した。アレクサンダー・コクラン提督の旗艦トナン号(HMS Tonnant)でも勤務した。1814年の米国との軍事行動にも参加した。コクランはワシントン攻撃を計画し、Patuxent Riverの戦役にも加わった。1814年に中尉に昇進した北アメリカ沿岸で各種の海兵隊軍務に従事し、ワシントン砦の崩壊(destruction of Washington.)の場面にも立ち会った。休職中に退職した。(retired on half-pay)

 商業船舶に職を求めて、アドベンチャーな人生が始まった。共同オーナーとして船長になった。阿片、毛皮、白檀(sandalwood)、真珠取りなどの投機的な取引(speculative trades)に従事した。1830年代には鯨漁や鯨貿易でハワイ島ホノルルに滞在した。コール船長は、安物のラム酒に水を混ぜたグロッグショップ(grog shop)を開店して、宣教師たちの反感を買った。ヨーロッパ人の子供たちの為に、普通校の小学校(non-mission)の開校を助けた。


 コール船長は、何度も原住民と衝突を起こした。1834年にはコール船長の船Truroを盗んだとしてタヒチ島ポメレで裁判に勝訴した。
1840年にメルボルン( Port Phillip)の少し前には、シドニーで鯨漁船の装備を施す会社を立ち上げ、特許式造船台(patent slip)の為の土地を取得した。コール船長のは、英国へ行って設備や機械を買い入れていたが、方針を変更した。
1840年7月4日、コール船長は部分的に所有するスクーナー帆船ウォーターリリー(Waterlily:スイレン)号でメルボルンに到着した。



 コール船長は、当時、47歳でメルボルンの開拓者たちの間では最年長者であった。
チャールズラトローブ総督(Charles La Trobe) は39歳、警察裁判所判事ウィリアム・ロンズデール大佐は、40歳、メルボルンの最初の開拓者ジョンパスコフォークナー(John Pascoe Fawkner)は37歳であった。コール船長は、尊敬を込めて開拓者たちからオールド・キング・コール(Old King Cole)と呼ばれた。特に後年には灰色の長い髪をしていた。コール船長はメルボルンの海運業の革命者であった。コール船長は帆船で人生を送ってきたが、蒸気船の時代が来ると予測していた。


 帆船と蒸気船の違いが判る実例がある。
1843年に豪州司教のウィリアム・ブロートン(William Broughton)がメルボルンを離任し、シドニーyへ帰還した。ブロートン司教は3本マスト帆船Midlothianに乗船した。バーウォンヘッド(the Heads:Barwon Heads)をセーリングで通過するのに3日かかった。3日目にロンセストン経由でシドニーへ向かう外輪蒸気船シャムロック号が視界に入った。ブロートン司教は、夕方にシャムロック号に乗り移った。




 コール船長は、メルボルンでも船事業に興味を抱いており、外輪船(paddle-steamers)をヤラ川やメルボルン湾(Port Phillip Bay)で運行した。1851年にメルボルン市号(City of Melbourne)を建造したが、南半球で最初のスクリュー推進式蒸気船であった。メルボルンとタスマニアのロンセストン間を運行したが、最後には難破した。コール船長は、銀行を経営したり、様々な事に興味を示した。また英国ロイド協会のエージェントでもあった。
コール船長は、著名な市民として有名になった。コール船長の財力は、1841年12月に150名の友人・知人を呼んで魚釣りとパーティを主催して驚かせた。招待客にはチャールズラトローブ総督もいた。1842年にブライトン海岸で沿いに4エーカーの土地を購入した。コール船長が暮らしたセント・ニニアン(St Ninian's)をプレハブのチーク材で建設した。


 コール船長は、海外やジーロンからメルボルン湾からシティまで旅客や荷物を運ぶ為、メルボルンの発展の為に蒸気船が必要であると予測していた。コール船長は、メルボルン湾海運会社(Port Phillip Steam Navigation Company)を設立し、外輪蒸気船アフラシア(Aphrasia)号をメルボルンとジーロンの間を週に二回、運行した。ラトローブ総督がクイーンズクリフのショートランド・ブラフにある別荘に通うためにアフラシア号を利用している。
コール船長は、Sea Horse号をシドニーへ月に二便、Corsair号を週に1便、Governor Arthur号を毎日二便をウィリアムズタウンに運行した。



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