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イースタンヒルホテル Eastern Hill Hotel

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2015年12月24日(木)
イースタンヒルホテル 
Eastern Hill Hotel
ビクトリアパレードとブランズウィック通り交差点
Victoria Parade and Brunswick Street
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

ビクトリアパレードからフィッツロイへ入る入口の場所にイースタンヒルホテルがある。メルボルンの労働運動に名を残す8時間運動と深い関係がある。


撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/250 F11.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2013年1月21日10:57 板屋雅博撮影

 旧イースタンヒルホテルは、建設当初はベルビデアホテル(Belvidere Hotel)と呼ばれていた。建築家ジョセフ・バーンズ(Joseph Burns)の設計で1854年に建築を始め、1856年に完成した。施主はトーマス・マクレランド(Thomas McClelland)である。
3階建ての建物のファサードはクラシカル様式でデザインされ、赤レンガを構造材に使用して化粧塗装を施してある。建築当時の姿のままを残している。
1866年と1877年に一部変更が加えられたが、後ろの部分と内部インテリアである。1850年代に建設された現存するホテルの中で最も優雅なデザインであり、建設当時の姿を残している。初期のデザインはジョセフ・バーンズであったが、改築期はA.F. Kursteineがデザインを担当した。Kursteineはフィッツロイのいくつかの建物を設計している。特に有名な建物はフィッツロイGreeves Street 33番地である。


 長い年月の間、1階部分と2階部分のインテリアはかなり変更が加えられて変貌している。3階部分のインテリアは19世紀のレイアウトのままに姿を残している。イースタンヒルホテルは、ビクトリア時代の半ばのゴールドラッシュ期に出来たホテルとしては数少ない貴重な建物である。イースタンヒルホテルは、ビクトリア植民地8時間運動(一日の労働時間)に関係している。ゴールドラッシュがメルボルンの発展に与えた影響についてイースタンヒルホテルは、重要な証人である。

左側のタワーはイースタンヒル消防署。
イースタンヒル消防署 消防車 消防博物館(メルボルン百景)

左側の通りはビクトリアパレードだが、通りの向こう側はイーストメルボルンである。

 ベルビデアホテルが完成した1856年からその後の時期、8時間運動や関係する数多くの宴席やミーティングがこのホテルで行われた。
8時間運動を支持する労働組合主義者たちはベルビデアホテルを8時間運動の本部として使用し、ホテルはベルビデライツ(belviderites)と呼ばれた。
8時間運動はオーストラリアの6つの英国植民地の初期の産業や政治に非常に重要な役割を持っていた。現在でも労働組合運動からは評価されている。

Onmydoorstep

8時間運動 (メルボルン百景)

 1856年4月21日、ジェイムズ・ステファンズ( James Stephens)をリーダーとした石工たちがメルボルン大学での建築作業を終えて、ベルビデアホテルへと向かった。建築職人と建築請負業者との間で交渉がまとまり、植民地政府の承認も受けて、1日8時間の労働時間がメルボルンの建築業界にもたらされた。石工たちは豪州の過酷な暑さの中では8時間労働が限度だと訴えた。また労働者にも社会的な余裕やモラル向上の為の時間が必要とも主張した。





 ジェイムズ・ステファンズや石工たちの業績はオーストラリアの労働者の標準となり、その後、世界標準となった。1856年の世界で最初の画期的な出来事としてまたオーストラリアが労働者の天国として知られるようになった。ただし8時間労働は労働者の一部にだけ適用され、多くの労働者、女性、子供は12時間から16時間の長時間労働を続けたという事実もある。

Winning the 8-hour day

The Eight Hour Day

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