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デボンシャーアームズホテル Devonshire Arms Hotel

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  メルボルンの建築史-1849

メルボルンの社会史 パブ

2017年4月9日(日)
デボンシャーアームズホテル
Devonshire Arms Hotel
フィッツロイ Fitzroy
メルボルン Melbourne
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デボンシャーアームズホテルは、1843年に建設され同年に免許を受けたメルボルンに現存する最古のホテルである。これまでメルボルン百景で調べた中では英国で建築されたものを除くとセントジェームズ教会と次ぐ最古の建築物である。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/250 F4.0 ISO感度 100 オート 露出補正 -1/3 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2017年1月16日18:13 板屋雅博撮影


  デボンシャーアームズホテルは、1843年にフィッツロイのフィッツロイ通りに建設された。施主は、ビジネスマン、土地投機家、メルボルン市助役のフランシス・クラーク(Francis Clark)である。同ホテルは、1843年に酒類販売免許を取得した。ヒップ&バレー(寄せ屋根隅部と谷部を持つ)一層式屋根を持ちブルーストーン製の台座の上部に化粧煉瓦で作られている。植民地時代初期の建設材料である粗挽き木材(pit-sawn)や手製の釘が使用されている。馬小屋と台所が1849年から50年にかけて増築された。屋根板や手製釘も良い状態で現在も残っている。波形の鉄製屋根もその当時に設置された。これらの改善策は、1844年のNSW植民地が出した宿泊施設に対する許認可法律に対応していると見られる。

 1870年の法律により後部の宿泊棟にキッチンを設置している。その際に建物の改築により現在の二重のサッシを持った大きな窓枠が設置された。
一階部分天井に圧縮した材料を使用するなどの改良が加えられたが、建物全体や内部は、ほとんど建設当初の状態を残している。ふたつの初期の木製戸棚、煉瓦製の暖炉、ホテル宿泊部の階段、下地としっくいの天井や壁、ヘシアン布地の壁、アーキトレーブなどである。



 フランシス・クラークは、英国エセックスの生まれであり、1840年代初期に移民してきた。当時の移民の多くは貧しい英国南西部の出身者で占められていた。デボンシャーは、英国南西部の地区の名前であり、フィッツロイの地域にはデボンシャーなど南西部の出身者が多いことから付けられたと見られる。同地方の出身者が集まるパブ、集会所の意味があった。1845年から1847年にかけて、デボンシャーアームズホテルの宿主は、JC Passmoreであった。パスモアは、後にメルボルンの創設者のひとりであるジョン・パスコ・フォークナー(John Pascoe Fawkner)のホテルも経営している。後にシェイクスピアホテル(Shakespeare Hotel)と名前を変えた。パスモアは、ブライトンのニューストリートにあった別のデボンシャーホテルのライセンスも1865年に取得している。


 フランシス・クラークは、1840年にメルボルンに移民してきて、1842年にジェイムスパルマ―(James Palmer)のレモネード&ソーダ工場のマネージャーになった。1845年にバーク通りとエリザベス通りの交差点角地に肉屋をオープンした。その後、リッチモンドにも肉屋をオープンしている。クラークは、資産の大半を土地と建物の不動産投機で獲得した。特にフィッツロイと郊外のアルピントン(Alphington)、現在のアイバンホー(Ivanhoe)であった。クラークはデボンシャーアームズホテルを約50年間、保有した後、1896年に他界した。


 フランシス・クラークは、1850年にメルボルン市に新しく出来たフィッツロイ区の最初の選挙に立候補したが、落選している。1852年にメルボルン市議選には当選した。

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現在、デボンシャーアームズホテルは、セントビンセント病院の中毒治療部門を収容しているが、建物が長くパブ居酒屋であったことを考えると皮肉なことである。

Wikipedia

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