メルボルンシティ案内

フッツクレートップ

フッツクレーの船着場、桟橋

メルボルン百景のトップ



2006年10月28日(土)へ
17時00分

フッツクレーの船着場
Footscray Wharf
Melway 42−E6

午前中は曇ってましたが、午後からは雲は多いものの晴れてきました。
夕方から散歩をかねてフッツクレーに来てみました。
正面は、Hopetoun Bridgeです。北(上流)に向かっています。右側がシティです。

昨日までの画像

↓この下に追加画像があります。



Shepherd Bridge
南(下流)に向かって。南に進むとWest Gate Bridgeがあり、更に行くとウイリアムズタウン(Williams Town)があります。
フッツクレー(Footscray)は移民の街です。1835年にメルボルンの街がスタートしましたが、1850年代のゴールドラッシュを経て人口が拡大して、メルボルンの街も急速に膨張してきました。当時の移民にせよなんにせよ移動は全て船でした。ヨーロッパやアジアからの船はヤラ川を登ってメルボルンの西側の地区に停泊しました。またその場所には船の修理工場、ドックランドがありました。従ってメルボルンの西側は、自然に産業、工業地区となりました。そこはもちろん低所得移民者層が住む街となっていったのです。第二次大戦後の1950年代から60年代にかけてはギリシャ人、イタリア人、クロアチア人などが住み着きました。ベトナム戦争により多くのベトナム人もまたこの街に住み着きました。ごく最近では、北西アフリカのスーダン、アルジェリア、モロッコ、エチオピアの黒人移民が数多く住むようになりました。

フェリーボート乗り場
列車の引き込み線がここまで入ってきています。
1935年にメルボルンがスタートしましたが、ほぼ同じ頃ウィリアムズタウン、ジーロンの街も殖民が開始されました。メルボルンからウィリアムズタウン、ジーロン方面に向かうためにこの場所に渡し舟がかけられました。
同時にホテルが作られ、フッツクレーの街がスタートしました。ウィリアムズタウン、ジーロンは、羊や牛、即ち牧畜業が盛んでしたが、フッツクレーの街で食肉加工業が発展しました。ヤラ川はその影響で汚染が進み、現在のようにきれいになったのは1980年代のことです。フッツクレーはメルボルンの工業と農業の両方に深く関わっているのです。

Lynchs Bridge
ちょうどVline の西のジーロン(Geelong)方面へ向かう列車が通りかかりました。ディーゼル機関です。

フッツクレー歴史教会

AFL、オーストラリアンフットボールのWestern Bulldogsは、以前はFootscray Football Clabでした。いかにオーストラリアンフットボールが労働者階級と深い関係であるかがわかります。

フレミントン競馬場(Flemington Racecource)は、ここから200mほど上流にあります。再来週はいよいよメルボルンカップです。

シティまでは5kmほどの距離です。
ヤラ川の向こう側はメルボルン港湾地帯が続きます。豪州No1のコンテナヤードです。野菜、果物、魚の卸売り市場なども左側にあります。

大型船は、この場所から1kmほど南で右折してコンテナヤードに入ります。それにしても水深が非常に浅く、航路が狭いために大型船は入出港に苦労するようです。

このページのトップへ


当ページに記されている内容の信頼性に関しまして、筆者は責任をもっておりません。ご注意ください。
当ページ及び付属のページに記載されている内容や画像を無断で複製・転載・使用することを禁じます。
Copyrights (C) 2005-2006 Melbourne Hyakkei All Rights Reserved.
Please contact to itaya@iprimus.com.au












inserted by FC2 system