バンバリー通り鉄道橋 Bunbury Street Railway Bridge

2020年8月9日(日) 通常版
Bunbury Street Railway Bridge
フッツクレイ Footscray
メルボルン Melbourne
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フッツクレイのマリビノン川は、塩水川(ソルトウォーター)と呼ばれていた。ロンズデール行政官が作った渡し船は、メルボルンと西側地区を結ぶ重要な拠点となった。バンバリー橋鉄道橋は、その近くにある。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞りF11.0 1/400秒 ISO感度 100 露出補正 -1 太陽光 JPG レンズ EF 24-70 mm f/2.8L USM  2017年1月19日16:37 板屋雅博撮影


メルボルンの創立者であるジョン・パスコ・フォークナーが作ったメルボルン・アドバタイザー紙(Port Phillip Patriot & Melbourne Advertiser)の1839年の新聞に下記の文章があある。重要事項、ヤラ川と交差する場所の近くに塩水川(Saltwater River)に定期渡し船が開設される。目的は、メルボルンとウィリアムズタウン、ジーロンを行き来する旅行者、と彼らの馬が塩水川を渡る用途である。
メルボルンのロンズデール大佐(初代行政官)が小さな渡し舟を設置したが、馬2匹又は小さな馬車1台を運べる大きさであった。この小さな渡し船は、初期の開発時代にメルボルンと近郊を結ぶ重要な拠点であった。


1802年年末から3年の始めの夏季期間、シドニーから副官チャールズ・ロビン( Lieutenant Charles Robbins)は、チャールズ・グリム副調査官(Acting Surveyor General)を伴い、英国政府調査船、スクーナー型帆船カンバーランド(Cumberlandでポートフィリップ地区(現在のメルボルン)を調査した。1803年1月20日、陸地の調査を命じた。グリムの調査隊は、ポイントネピアン(Point Nepian)からバラライン半島(Ballerine Peninshula)を反時計回り(anti clockwise)に38日をかけて調査した。


 2月3日の早暁、ロビン、グリム、ジェームズ・フレミング(James Fleminng:農業家、diarist:記録係)は、7名の船員の手漕ぎボートでヤラ川(Great River)。2-3マイルの場所で川の合流地点に到達し、左川のマリビノン川へ入った。
ぞっとする否定的な(grim)報告書が作られた。見渡す限り木々がなかった。石ばかりの土地(Srony Soil)という報告書は、シドニーの総督を愕然とさせ、ポートフィリップへの植民は25年ほど遅れた。


ソルトウォーター川渡しとフッツクレイ波止場は、マリビノン川の西岸にあり、ホプキンス通りから南側の部分である。
フッツクレイ波止場は、ソルトウォーター川がメルボルン海運で重要な拠点であったことを表している。輸送ルートの確立、行政役場の建設、フッツクレイ町の成立、住居、産業工場、海運などと関係している。文化的側面も見逃せない。 Henderson House、バンバリー通りの民家、シュワルツのボート小屋( Schwartz's Boathouse)、Michaelis Hallenstein Tanneryの当時の工場などがある。



Footscray wharves  

Saltwater River Crossing Site



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