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印象派 Impressionism

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2008年8月14日(木)
印象派 Impressionism
ハイデルバーグ Heidelberg 
ハーストブリッジ線 Hurstbridge line
メルボルン Melbourne 
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今日も一日、晴れたり曇ったりを繰り返す一日でした。朝晩の寒さは相変わらずですが、日中は多少暖かくなってきたようです。

昨年の今日2007年8月13日(アーマデール

ハイデルバーグ駅、1番ホーム。フリンダース駅行きの電車が入ります。各駅停車、急行合わせて10分に1本ほどがあります。急行と云っても前の電車を追い越すことはありません。

ハイデルバーグは、ハーストブリッジ線の中では一番、大きな町です。町の名前は、ドイツのハイデルベルグの町から来ています。初期の移民の中にドイツ移民が多かったからです。ハイデルバーグは、メルボルンの早い段階から移民が住み始めています。また芸術家が多く住んだ町としても有名です。現在でもハイデルバーグ、イーグルモント、アイバンホーなどの町は古くからの高級住宅地として有名です。
ハーストブリッジ線は、ヤラ川に沿って東へ延びており、終点駅のひとつであるエルサムからは、車でヤラバレーへの道があります。ハイデルバーグに多く住んだ芸術家は、ヨーロッパの印象派の流れをくむハイデルバーグ派(Hedelberg School)として知られています。1956年のメルボルンオリンピックの際には、選手村がありました。

 ハイデルバーグの土地が植民地政府によって売り出されたのは、メルボルン成立後3年の1838年です。1841年には、メルボルンからノースフィッツロイ経由での道路ハイデルバーグ道路が建設されました。
ハイデルバーグは高台にあり、南側のヤラ川にかけて絶景が広がることから、遊び好きのメルボルンっ子の行楽の地として開発が進みました。1880年代から多くの芸術家が集まるようになりハイデルバーグ派が形成されます。
1888年に鉄道が建設されメルボルンまで直通で行けるようになると人口が著しく増加を始めました。
1934年にハイデルバーグは、市に昇格しました。その後、ハイデルバーグからクルフトンヒルにかけて、多くの駅と町が形成されました。
1937年にハイデルバーグタウンホールが建設されました。

印象派(Impressionism)は、1870年ころからフランスパリで始まった絵画及び美術の運動です。
印象派の名前は、1874年に第一回印象派展が実施された際に、モネ(Claude Monet)が発表したSunrise(日の出)、Impression, soleil levantと名づけたことに由来します。
その際の参加者は、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾなどそうそうたるメンバーが参加していますが、その当時は世間からは、まったく無視された存在でした。
しかしその後、数年でヨーロッパの美術会を席巻するようになり、メルボルンにまで印象派の町が出来るようになります。

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 1867年のパリ万博に江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展しており、独自の自由な画面構成を持つ葛飾北斎などの浮世絵がヨーロッパ画壇に大きな影響を与えました。1800年代の半ばには、ヨーロッパ画壇は、中世以来の写実主義の域を抜け出せず新しい時代の芸術が生み出せずに停滞していました。
1867年のパリ万博への出展から13年ほどで、その影響がメルボルンに芸術家村を作られせることになったわけです。

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