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オーシャンブルー Ocean Blue

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2007年4月17日(火) 15時30分 (今日の一枚へ戻る
カフェ オーシャンブルー Ocean Blue
ステーションピア Station Pier
Port Melbourne Melway 2J−A7

今日は、晴れの一日でした。午前中から昼過ぎにかけては雲が多かったのですが、午後からは、からっと晴れて、きれいな夕方になりました。サマータイムが終わって朝は、1時間分明るくなりましたが、また冬至に向かってまた段々と暗くなっています。
正面の奥はタスマニア号(Spirit of Tasmania)

2006年4月17日の画像

 タスマニア号を見る人々
ステーションピアは、メルボルンや豪州の移民の歴史に非常に大きな貢献をしてきた重要な桟橋です。しかし現在ではタスマニア行きのフェリーボート タスマニア号の桟橋としての印象が強くなっています。
タスマニアは、オランダ東インド会社の要請により1642年にオランダ人のアベルタスマン(Abel Janszoon Tasman)が発見しました。当時、オランダ東インド会社は、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に本拠地を置いていました。1635年からバンディーメン(Anthony van Diemen)が総督になっています。1641年にオランダ東インド会社は、長崎の出島に商館を開いています。オーストラリアは、オランダの探検家Willem Janszoonが1606年発見し、クインズランドのケープヨークに到達しています。
出島公式Web

 1642年にバンディーメンは、アベルタスマンに豪州の更に南にあるといううわさの大陸の調査を命じました。1642年の11月24日に陸地に到着し、調査を命じた東インド会社の総督の名前を取ってバンディーメンズランドと名付けました。現在のタスマニア島です。12月3日には上陸に成功してオランダ国旗を掲げて、タスマニアの領有を宣言しています。アベルタスマンは、更にタスマニアの北部の調査を企てましたが、風が非常に強く、逆に南部に流されました。そして1642年12月13日には、更に南部の島に到達しました。現在のニュージーランドです。やはりアベルタスマンが西欧人としては最初に到達し、Staten Landtと名付けています。

尚、南太平洋の部族であるマオリ族は、ニュージーランドへ800年から1300年頃に住み着いています。

 タスマニアは、1803年に英国人がホバート(Hobart)に定住を始めました。初期の移民者は、主に英国からの島流しにされた囚人です。タスマニアは、シドニーと同様に流刑地としてスタートしたのです。ポートアーサー(Port Arthur)とマッコーリーハーバー(Macquarie Habour)がその過酷な科刑により有名です。一方でランセストン(Launceston)など一般の移民者も増えています。1800年代の初頭には、ブラックライン(ジョンバットマン参照)などにより、ほとんどの現住民族のアボリジニは英国人により抹殺されています。

コリンズ大佐
最後のタスマニア人の戦い
Sydney Line

 カフェ オーシャンブルー Ocean Blue
Station Pier, Port Melbourne Tel. 9646 9995

1825年にはバンディーメンズランドは、NSW州から離れて独立した植民地となりました。1856年に法律により州の名前をタスマニアに変更しています。

ステーションピア公式Web

Spirit of Tasmania公式Web

マイドッグカフェ(My Dog Cafe)は、直ぐ隣にあります。

タスマニアは、豪州の6個の州の中で最小の州です。首都はホバートです。豪州本土とは自然もかなり違います。人々の気質や生活様式も少しずつ違っています。
それがタスマニアの持つ魅力となっています。
資源大国の豪州の中では、農水産物以外には資源には恵まれていません。
しかしそのユニークさにより豪州の中では独特の地位を保っています。
地球上で最後に生き残るのはタスマニアとニュージーランドとも言われています。

ポートメルボルントップ

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