2022年4月30日(土) Responsive版
ヘラルドオブモーニング号
Herald of the Morning
サッドリッジ Sandridge
ポートメルボルン Port Melbourne
メルボルン Melbourne
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ヘラルドオブモーニング号は、豪州航路を運行する為に、1853年、又は54年にカナダのニューブランズウィック、セントジョン市で建造された3本マストのそれぞれ四角形の横張セールを偽装する横帆艤装(square-rigged
)の帆船である。
帆船である。現在のメルボルンの新聞によると1292トンと登録され美しい帆船であったと書いていた。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/800 F8.0 ISO感度 200 オート 露出補正 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2015年1月23日13:23 板屋雅博撮影
1853年に建造されたが、登録さえたのは54年であった。ロイド船級協会(Lloyd's)によってALの船級を7年間受けていた。所有者は、 ジョージ・キング(George
King)、ジョン・ストーム(John Storm)、ジェームズ・トンプソン(James Thompson)であった。処女航海は、1854年12月19日にリバプールからメルボルン、船長はジョン・アトリッジ(John
Attridge)であった。1857年にもリバプールーメルボルンの航海を行った。1858年6月にはリバプールーシドニー路線を船長G Rudolph、積み荷は1291トンであった。
1858年8月には、メルボルンーカイロ航路を走った。
リバプールーメルボルンは、1859年11月5日に帆走した。
419名の政府から依頼された移民を乗せた1859年に行われたヘラルドオブモーニング号の2回目の豪州への航路の終わりのこと、リバプールからメルボルンのホブソン湾に11月5日に投錨した。
11月15日午後11時に船長は、船長室に戻って就寝した。深夜を過ぎたころ誰かが火事だと叫んでいるのを聞いて起き上がった。火事は直ぐに船全体に広がった。船の喫水線の近くに穴をあけて船を鎮めようと試みたが、船が燃えて軽くなったために、穴の部分が喫水線より高くなってしまい、失敗した。錨のチェーンを外して船を動かそうと試みたが、火勢が強くて船員が錨に近づけなかった。
最後には外部から切断されて、行こ残った部分は、2船のタグボートライオネス号(Lioness)とソフィア号(Sophia)によってポートメルボルンのサンドリッジ海岸の海岸に引っ張られた。残骸部分は燃え落ちた。
タグボートのライオネス号とヘラクレス号(Hercules )は船の残骸をサンドリッジ海岸とウィリアムズタウンの間のビーチに運んだが、船はくすぶり(smolder)続けた。
残骸( hulk)は、最後には1889年頃にドナルドソン桟橋(Donaldsons jetty)の端に沈められた。
船長ルドルフ( G Rudolph)と船医カスタートン(Dr & Mrs Casterton)はヘラルドオブモーニング(Herald of the Morningがメルボルンに到着した夜に退職している。
当時、ビクトリアは急速に成長しており、英国製資材への貪欲な欲求があった。積み荷の中にはホーソン橋に使用する予定の鉄製の部材や送水管が含まれていた。鉄製部材は廃船から引き上げられたが、火災によってダメージがあった。その後も(subsequently)資材が引き上げられたが、部分的にはオークションで売却されて、レデスデール(Redesdale.)のミアミア橋で橋桁を構成する三角トラス構造に使用された。
H. B. Donaldson and Co.
船の廃船残骸は、1859年11月29日に売却の為の広告が新聞に出された。
廃船は、メルボルンの海岸に長い間、ビーチに座していたが、メルボルン港湾局局長(Harbour Trust Commissioners)は次の提言を政府財政委員会(
Finance Committee:)に提言した。
1881年9月7日に政府財政委員会又は港湾局は、H. B. ドナルドソン会社(H. B. Donaldson and Co)に対して法律76条にホブソン湾サンドリッジ海岸の難破船を一定の期間内に撤去するように指示を出すべきであると書簡に名前を出している。更に政府財政委員会は、スチュアート、ホワイト会社(Messrs.
Stewart, White and Co)に対して、委員会が委員長に提出する条件で占有者の所有権を港湾局に譲渡するように指示を出すべきであるとした。
1845年に始まった偉大な北米クリッパー船(great North American clipper ship)時代に建設された。クリッパー船の時代は経済状況などにより1860年代に終わった。クリッパー船時代は、新しいアイデアや技術が取り入れられた画期的な時代であった。船の艤装(ships'
yards)にローラーリーフィング(セール巻き取り機構、 roller-reefing)などの新技術があり、試験して実装された。この時代には船舶の設計と建造には大きな進展があった。類似点を例えれば、プロペラ機とジェット機の差がある。ビクトリア州にはクリッパー船は現存していない。
ニューブランズウィック、セントジョン市(St. John New Brunswick)は、十分な量の木材があり北部アメリカで木製の帆船建造の中心地であった。
ヘラルドオブモーニング号は、奥深い森林が伐採された巨大な木材で建造された。
熟練した職人チームが地元や輸入品の木材を加工し、帆船の部材を作り出した。竜骨(キール、keel)、内竜骨( keelson),、湾曲した木片(膝、knees)、
縦通材(ストリンガー、stringers)、骨組み(フレーム, frames) 、厚板材(planking)。.
ヘラルドオブモーニング号は、ゴールドラッシュで沸くビクトリア植民地との交易を目的として建造された。ヘラルドオブモーニング号が建造された時代は、船舶建造史の中で最も重要で興味深い時期であった。帆船は、新艇の優位性を見せつけた。基本的な勉強としてLoney
and Parsonsを読み、ビクトリア州立図書館に行こう。
ポートメルボルンにかつてあったスポーツジム
州立図書館は、貴重な資料が備わっている。
1990年、レオニー・フォスター博士(Dr Leonie Foster)の4部作の本がある。ポートフィリップ湾の難破船1−4部作である。1863年にボブリーク(Bob
Leek)が難破船ヘラルドオブモーニング号に関する手がかりを掴んだ。メルボルン港湾局(Melbourne Harbor)局長(Harbour
Master)による年次レポートの一般報告書の海事支局版(The General Report for the year from the Nautical
Branch)に記録されている。
ポートメルボルンにかつてあったスポーツジムの入り口
報告書には、ホブソン湾における難破船の興味深い事例が載せられいる。
ケープベルデ号(Cape Verde)とSSカカリキ号(SS Kakariki)は、ウィリアムズタウン沖で1889年と1937年に沈んだが、爆発物を使って取り除かれた。しかしホブソン湾の海底には残存物が残っている。
ヘラルドオブモーニング号の残骸もポートメルボルンの海底の残っている可能性がある。
タスマニア号
ロイド
世界でもっとも歴史が古く、規模も大きいイギリスの船級協会。1688年ごろエドワード・ロイドEdward Lloyd(1648―1713)が、ロンドンのテムズ川畔近くにコーヒー店を開いたが、客に海事関係者が多かったため、手書きの船名表をつくり、1696年から海事情報としてロイド・ニュースを発行したのが最初である。さらに1760年には協会を組織するなど、同コーヒー店は船舶売買のための船舶ブローカーの重要な集会所となった。
タスマニア号
船舶、船主、船齢、積量、船体艤装(ぎそう)状態などを記載した船名録Resister of Shippingを出版することになり、船舶に等級をつけて発表した。1834年にロイド船級協会が設立され、世界の海上航行船について明細事項を記入した船名録を、等級(船級)を付して発表することにした。、同協会の規則に従う造船をし、同協会の検査員の検査を受けなければならない。船舶の売買や保険加入などの際に、船それ自体を見ることなく契約ができるという利便があり、その船級は権威あるものとして扱われている。なお世界には現在九の権威ある船級協会がある。
ポートメルボルンの海岸
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