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レディセントキルダとセントキルダ桟橋キオスク

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2009年5月25日(月)
レディセントキルダとセントキルダ桟橋キオスク Lady St Kilda & St Kilda PierKiosk
セントキルダ St Kilda
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

今日のメルボルンは、曇り。気温は17℃ほどでまずまず暖かさだった。夕方から久し振りに雨が降り出した。

昨年の今日 2008年5月25日(ブルネッティ ケーキ

Canon EOS 40D 絞り優先AE シャッター速度1/200秒  絞りF14.0 スポット測光  ISO感度 200 AWB  画質圧縮率 JPEG  レンズ EF-S17-85mm f/4-5.6 IS USM

 1841年7月、メルボルン湾(Port Philllip Bay)に1船の美しい帆船が入港してきた。
英国のレディセントキルダ号(Lady St Kilda)だ。
レディセントキルダ号の持ち主は、英国デボンシャーの貴族トマス・ダイク・アクランド卿(Tomas Dyke Acland)と云う。

レディセントキルダ号は、メルボルン湾をひとまわりした後、セントキルダの海岸に錨を降ろした。トマス・ダイク・アクランド卿は、手漕ぎボートで海岸へ上陸し、その後、水兵と共に、人口4000名の都会、メルボルンへ向かった。初代総督チャールズ・ラトローブは、トマス・ダイク・アクランド卿を歓待し、記念として上陸した場所をセントキルダ(St Kilda)と名付けた。またセントキルダの中心部の通りをアクランド通り(Acland Street)と名付けられた。

 レディセントキルダの名前は、、スコットランドのヘブリデス諸島のセントキルダ島から来ている。
セントキルダ諸島は、英国のスコットランドに属しており世界遺産に登録されている。セントキルダ諸島に聖人がいたという記録は残っていないのでStという言葉は、他の単語が変化したと思われる。

St Kilda界隈は、1839年頃、Ben Baxterという人物が牛の放牧のために住みついた。
この辺りは、水深が比較的深く、上陸に適した場所であり、1840年には、簡単な桟橋が作られ、メルボルンで最初の検疫の場所となった。この桟橋が、現在のセントキルダ桟橋の初代である。

 ヨットハーバー

1853年には、セントキルダ桟橋会社が作られ、本格的に運用を開始した。セントキルダからヤラ川を経てメルボルンまでの帆船や汽船の運行が始まった。1959年には、セントキルダ市によって新しい桟橋が建設された。1883年頃に61m波きり桟橋が建設され、本体も700mに延長され現在のようなL字型の桟橋となった。『オゾン(Ozone)』、『ハイジーア(Hygeia)』、『ウィーロナ(Weerona)』の3船の観光汽船が1949年まで運航された。

メルボルンには、ウィリアムズタウン、ポートメルボルン、セントキルダの3本の桟橋があった。ウィリアムズタウンとポートメルボルンが移民の受け入れ、貿易、軍用に使用されたのに対して、セントキルダは、観光用に主に使用された。また海外からの貴賓の受け入れにも使われた。

 1901年のオーストラリアが植民地から独立してオーストラリア連邦国となった際には、後のキングジョージ5世英国国王、マリー女王などもセントキルダ桟橋に到着された。
セントキルダ桟橋の先端に建つキオスクは、1904年に建築された。もともとの名前は、パーラーのパビリオン(Parrer's Pavillion)と云う。1930年代には、カービーのキオスク(Kirby's )と名前が変わった。
2003年9月に放火により、残念ながら焼失したが、2006年3月に再オープンした。

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