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 軍部建築物

セントキルダ通り

ビクトリアバラックス 豪州陸海空軍統合幕僚本部

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2015年11月21日(土)
ビクトリアバラックス
豪州陸海空軍統合幕僚本部
Victoria Barracks
セントキルダ通り St Kilda Street
メルボルン Melbourne
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セントキルダ通りを南に進むとブルーストーン作りの重厚な建物がある。第二次世界大戦まで豪州三軍の総司令部であり、攻防総省であった。対日戦争では米軍のダグラスマッカーサー将軍が総指揮を執った場所でもある。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/400 F6.3 ISO感度 200 オート 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2015年1月24日12:48 板屋雅博撮影

eMelbourne

John Curtin

 ビクトリアバラックスは英国軍のメルボルン駐留部隊の兵舎として1856年頃から順次建設が始まった。メルボルン駐留部隊は、それ以前はフラッグスタッフ公園からバットマンヒル(現、サザンクロス駅周辺)やプリンセス橋などにキャンプをしていた。
1851年にビクトリア植民地でゴールドラッシュが始まった為に、1854年に英国軍は豪州駐留部隊の本部をシドニーからメルボルンに移した。
1859年に駐留軍は168エーカー(67ヘクタール)を植民地政府から割り与えられた。1863年からはビクトリア植民地軍と豪州派遣軍の統合幕僚本部となり、1866年からビクトリアンバラックスと呼ばれた。1870年に英国軍は豪州植民地から撤退したため、バラックスはビクトリア植民地陸軍と海軍の本部が使用した。

最初は砲兵隊本部が入居、続いて他の軍隊諸本部が入居した。孤児院、移民保護団体、警察本部なども広大な敷地の一部に入居した。1872年のニュージーランドでのマオリ族との紛争や南アのボーア戦争、1900年の中国の義和団事変などの際にはビクトリアバラックスは徴兵や出兵の調整、ボランティア兵士の管理などの本部としての役割を果たしたトムプライス将軍(Colonel Tom Price)が1891年に起きた海事ストライキの際に彼が創設したビクトリア騎馬隊( Victorian Mounted Rifles )に対して不名誉な命令を出したのもこの場所である。



 1901年に豪州連邦が成立した際に、ビクトリアバラックスの敷地は4.8ヘクタールに削減された。メルボルンが首都に定められ、初代国防大臣のジョンフォレスト(John Forrest)はビクトリアバラックスに事務所を設置し、ビクトリアバラックスは名実共に豪州陸海空軍の総本部、国防省となった。E.T. Hutton大将(Major-General)が豪州軍部の総司令官となった。第一次世界大戦の際には、ビクトリアバラックスがヨーロッパ遠征豪州軍の総本部として指揮を取った。管理部門の人員が増えたためビクトリアバラックス敷地内にあった兵舎は事務所に変えられた。
1927年に首都はキャンベラに移動したが、豪州軍の総本部はメルボルンに留まった。キャンベラには軍事施設がなくメルボルンのでないと指揮が取れなかった為である。



1939年に第二次世界大戦が始まる軍事上の重要な作戦はとビクトリアバラックスで決定された。1939年9月27日から1942年4月18日まで戦争指揮室に戦争遂行委員会が置かれ、豪州軍部の全ての戦闘部隊はアメリカ軍ダグラスマッカーサー将軍(Douglas MacArthur)の指揮下に入った。ジョンカーティン(John Curtin)戦時内閣首相が主宰した戦時委員会の最初の会合の2日後に日本軍の潜水艦が豪州の海岸に接近し、また日本軍の空軍機もメルボルンに爆撃可能な位置まで到達した。ビクトリアバラックスはビクトリア州の海岸線の防衛の為に非常な努力を行った。



戦後はビクトリアバラックスは豪州陸軍の指揮本部となった。1958年には豪州国防省はキャンベラに移動したが、いくつかの軍事事務所はビクトリアバラックスに残ったが、その後バーク通り661番地の国防センターへ移動した。セントキルダ通りに面した場所に設置してある二台の前込め式大砲は1854年のクリミア戦争の際にロシア軍から獲得したものである。1918年に第一次世界大戦の際に西部戦線とパレスチナでドイツ軍から獲得した2台の臼砲も展示している。



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