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プラーン技術学校 Prahran Mechanic Institute

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2014年4月22日(火)
プラーン技術学校 
Prahran Mechanic Institute
プラーン Prahran
メルボルン Melbourne
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チャペル通りとハイストリートの交差点から西へ200mほど進んだ場所にプラーン技術学校がある。現在はスウィンバーン大学の校舎となっているが、メルボルンの初期のゴールドラッシュの時期に労働者の学校として設立された。RMIT大学と似た背景を持っている。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/800 F5.0 ISO感度 200 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2014年1月12日12:05 板屋雅博撮影


プラーン技術学校は、1854年に設立された。当時、プラーンは、湿地帯に村落が点在する田舎であった。プラーン技術学校の学生の多くは労働者クラスの男性で社会に則した実学の勉強でより実力を向上させ、また更に深い学問へ挑戦する機会を提供した。メルボルンの社会の中で徐々に有名になっていった。社会人教育や一般開放型の図書館の先駆者でもあった。最初の建物は教室と図書館であり、1856年にチャペル通りに面して建てられた。1860年代にプラーン技術学校は正式に開校し、フランス語と速記のクラスがスタートした。
1870年には芸術学科が開校し、芸術とデザインのクラスが始まった。翌年プラーン芸術学校が教育学部を伴って開校した。

 1870年代には放漫経営と財政難が重なり、プラーン技術学校は経営難に陥った。大学関係者の努力によりビクトリア植民地政府を動かして、プラーン技術学校を援助する法案を可決した。1899年10月27日、ビクトリア植民地政府1617法(プラーン技術学校法1899年)が成立し、学校の財政基盤が確立した。
1908年にプラーン技術学校の事務総長に就任した J.H. Furneauxは調理学部と産業芸術学部を1909年に設立し、プラーン技術芸術学校として登録された。1910年頃にはプラーン技術学校の寄宿舎を利用する学生が少なくなったため、プラーン技術学校の資金を得る為に学校当局はチャペル通り側の校舎を売却を計画した。プラーン技術学校法が修正されチャペル通り校舎は、不動産物件可され、賃貸に出された。その資金によりハイストリート側の土地を購入し、1915年にふたつの校舎が建設された。


 ふたつの建物の建築家は、プラーン市長を2度務め、サウスヤラのフォークナーマンションやアーマデールのWaingawaマンションを設計したErnest Horatio Willisであった。
ウィリスのデザインは、クラシカル様式とロマネスク様式を折衷した1900年代初頭にメルボルンで流行したフェデレーション様式で設計し、建材としては赤レンガを使用している。
屋根には垂直の柱を多数の柱を配列し、3つのドーム状の銅製小塔を持つ独特の構造をしている。
正面ファサードの1階には店舗を配置し賃貸収入を得られるデザインとなっている。
建物は、セントジョン通りまで拡張され、1915年から1970年まで開校したプラーン技術スクールが置かれたが、その後、プラーン先進教育学校に吸収され、現在はスウィンバン技術大学となっている。


 プラーン技術学校の図書館は、1974年に校舎の裏手に設置されたが、ハイストリート側の前面に移動した。各店舗間の壁は取り払われて図書館と大学の事務所が置かれた。

140 HIGH STREET PRAHRAN, Stonnington City
Victorian Heritage Register (VHR) Number
H0400

Heritage Overlay Number
HO053


Onmydoorstep


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